城データ
城名:金明山城
別名:新城
標高:718m
比高:440m
築城年:室町時代
城主:天野氏(金明山天野氏)
場所:広島県東広島市志和町志和堀
北緯:東経:34.520868/132.680632
攻城記
あの山の山頂を目指す。
ここを左折して林道を車で登っていく。
車でかなり上まで来れるので問題ない。
山頂までは20分程度でこれる。
前方の山は生城山城でこちらにも別の天野氏がいた。
アップ。
石垣比高が400m以上あるところによく石垣を運んだものだと思う。
三角点。
曲輪。
土塁っぽい。
石垣がふんだんにある山城。
位置関係
open-hinataより【金明山城】
余湖図【金明山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【金明山城】
新城となっている。
城の概要
本城跡は,志和町の東の金明山山頂から南西に延びる尾根上に位置する。
遺構は尾根筋上に直線的に郭を配し背後(北東側)を堀切で区画しており,北,西,西南,南に延びる支尾根上にも郭を配している。
最南端の郭には石垣が残る。
城主は天野氏といわれ,その後城代として土肥氏が居城したと伝えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
金明山城
金明山城は、標高七三五mの金明山山頂から西南に延びる尾根上に位置し、 十二の郭を直線的に配置した山城である。
城主の天野氏は、金明山城の南方六㎞にある米山城の天野氏と同族の別系で、 米山城の初代天野顕義とは従兄弟関係にあたる政貞が、金明山の南麓に土居を構えたといわれている。
政貞の父政光は新田義貞の子義顕に従っていたが、政貞の子政国は新田義顕の子顕政を養子として迎え、南朝方に属していた。
顕政 は南朝方の諸氏と連絡を保ち、金明山の八合目あたりに彼らを匿っていたといわれる。
天野氏はその後、顕元・ 元繁・元平・元氏と続くが、 元氏の時に、郡山城(高田郡吉田町)の毛利氏が、金明山城を背後から攻撃したため、追い落とされた城兵 は山麓の横田という所で迎撃したという。
元氏には子がなく、米山城の七代弘氏の次男元貞を嗣子とした。
ついで、その養子隆重(興定の子)は、領地のほぼ中央部に財崎城を築いて移り、金明山城には城代として士肥藤左衛門を置いた。
金明山の南麓に殿さま屋敷、または藤内屋敷と呼ばれている平坦地があり、藤左衛門のいた所とも、また天野氏がいた所とも伝えられている。
金明山城は、本丸が約四〇m×二五mで、南側に腰郭がある。
尾根が延びる 西南側には、本丸の下に四段の郭を階段式に設けているほか、やや離れてさらに一段の郭がある。
本丸の北側には小郭があり、本丸から山頂に続く東北側に は二段の小郭とその間に腰郭があり、小郭の下には三五皿×一三mの大きな郭 が延びて、端部には一段高くなった小郭が設けられ、その下に堀切がある。
『日本城郭大系』13より引用。
金明山城跡 東広島市志和町志和堀
志和盆地北端にそびえる金明山(七三五メートル)に築かれた山城。
別名新城。城主は天野氏。
山頂から西南に延びる尾根上に、本丸を中心に一〇余の郭を直線的に配する。
南麓には居館跡があり、「殿様屋敷」あるいは「藤内屋敷」とよばれ、天野氏または城代土肥藤左衛門の屋敷跡と伝える。
南北朝初頭、伊豆天野郷(現静岡県田方郡伊豆長岡町)から来住した志芳庄西村地頭天野政貞の居城。
政貞は南朝方に属し、新田義貞の死後志芳庄に下向して金明山南麓に居館を構えて義貞の孫顕政を養子に迎え、顕政は南朝方諸氏を金明山にかくまったと伝える。
また政貞は財崎城にも拠ったといい、「芸藩通志」には、財崎城は天文(一五三二~五五)頃天野降重(政貞から七代目)が拠ったもので、新城(金明山城)は隆重の子元明が拠ったとみえる。
新城の称などから、当初、金明山中腹の殿様屋敷の地に拠り、隆重の時代に至って堀市・新市などを掌握する目的で財崎城に進出、旧地には城代として土肥藤左衛門を置き、のちに戦略的見地から再び金明山頂に本格的山城を構築したと考えられる。
『広島県の地名』より引用。
城の歴史
南北朝時代:天野政貞、政国親子はは南朝方の新田義貞に属して転戦する。
延元2年(1337):嫡男の政国が越前国金崎城で北朝方の高師泰軍と戦って討死する、結果新田義顕の子を顕政を名乗らせて養子にする。
顕政の子顕元は幕府に帰順して将軍義満に属するようになる。
応仁元年(1467):応仁の乱後には天野元氏が大内氏に属する。
天野元行(元連)の時に毛利元就の奇襲をうけて、一時城が占拠されるがほどなく奪還する。
天文年間(1532~54):天野隆重の時に大内義隆から筑前国内に領地を賜っている。
天文20年(1551):陶晴賢の謀叛によって大内義隆が殺害されると毛利氏に属する。
永禄8年(1565):尼子氏の本城富田月山城攻めには、隆重が出陣して軍功を立てている。
永禄10年(1567):尼子氏降伏後に、隆重は富田城を預けられ、出雲能木郡のうちに八百貫の地を賜った。
永禄12年(1569):尼子再興軍が富田城を包囲したが、守り切る。
元亀年間(1570~72):毛利元就の子元秋が富田城に入城すると、隆重が補佐した。
城主家系図
城主石高
天野五郎右衛門(元信)
7,140.955石
【内訳】
5,595.232石 備中 上房
351.094石 備中 賀陽
1,194.629石 安芸 賀茂
天野新兵衛(元嘉)
3,283.182石 備後 怒歌
天野九郎左衛門(元勝)
1,018.413石
【内訳】
312.102石 安芸 賀茂
94.174石 安芸 高田
327.815石 出雲 出東
159.400石 出雲 秋庭
50.016石 出雲 神門
74.906 備後 芦田
天野二郎右衛門(元時)
782.956石
【内訳】
638.221石 安芸 賀茂
144.735石 備後 恵蘇
天野吉蔵(元重)
486.322石 周防 玖珂
所感
●比高が高く、堅牢であるが一回元就に攻められて占拠されている。
●ただし、元就に攻められている時期が不明。
●この地域で石垣は珍しいが、高田郡方面の中郡衆(内藤氏、井原氏、秋山氏、三田氏)には石垣を使用した城があるので参考にした可能性がある。
関連URL
天野氏屋敷跡。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/02/12