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城データ

城名:藤加勢城

別名:藤綛城

標高:200m

比高:80m

築城年:不明

城主:秋山氏

場所:広島県広島市安佐北区白木町秋山

北緯:東経:34.545269/132.667914/

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

最初の横堀。

本丸周辺ではないがこのレベルの石垣がある。

削平地にある社。

社付近の石垣。

井戸跡。

本丸付近。

山頂部分。

岩が多いのが特徴で石垣の材料も不足しない。

かなり大きい。

本丸の裏側にかなりの大きめの石垣がある。

下を臨むと大横堀がある。

下から確認すると分かりやすい。

見上げるとこんな感じになる。

側面の横堀。

 

 

光明寺跡

 

 

古い時代の宝篋印塔や五輪塔の残欠がある。

秋山氏とも関係あると思われる。

寺の跡は広い削平地になっているが、後世の改変の可能性もある。。

少し離れた場所にも宝篋印塔や五輪塔がある。

位置関係

 

余湖図【藤加勢城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【藤加勢城】

城の概要

二段構成の1郭から北に向けて郭を置き、堀切を挟んでさらに郭を配している。

 

また、1郭の西側にも郭を置き、南側には大堀切を設けて背後に連らなる尾根を分断している。

 

随所に石垣・土塁などを築いているのが特徴的である。

 

城主は秋山氏を伝えられている。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

 

朝日ヶ城跡・藤綛城跡があり、「国郡志下調書出帳」には「当村真中に有之候、御建中山嶺上是を朝日か城と申伝候、城主秋山兵衛と申来り候、同壱ヶ所本郷東北之側藤綛之城と申候、城主之名は相しれ不申候、右城主雲州副と申村にて神に祭り秋山善神と称し候由」とある

 

「高田郡社寺古城山由来記」に、朝日ヶ城は「高さ二町、面十一間、廃池涸井あり、礎石又存す、四壇あり、秋山兵部の所居、秋山氏は毛利氏の時国衆の一にして毛利氏に 属せり」とあり藤綛城は「高さ二町、面十八町、秋山隼人利久の所居」とも記している。

 

村内の宇和上天は秋山氏と隣村の三田氏との土地争いの合戦が行われた所で、将卒の墓が残る。往々鏃が掘出されたという。

 

『広島県の地名』より引用。

 

城の歴史

文明5年(1473):古文書としての初見はこの年の秋山神社の永代切売証文である。

 

永正8年(1511):1500年代になると秋山氏の行動も活発になり、また毛利氏に忠節を誓い傘下に入るようになる記していく。

 

永正14年(1517):『陰徳太平記』に毛利と武田の有田合戦の記述があり、武田方の将兵として着陣している。

 

大永4年(1524):『陰徳太平記』に尼子側として武田氏が籠もる安芸銀山城の救援に向かう記載有り。

 

享禄5年(1532):秋山氏やその他「中郡衆」の内藤氏、三田氏、井原氏と共に毛利氏に利害関係の調停を要請した家臣団の連署起請文に加わる。

 

天文9年(1540):『陰徳太平記』に尼子氏が吉田郡山城を攻めた時に毛利氏と共に戦った記載有り。

 

天文12年(1543):『吉田物語』に第一次月山富田城の戦いとして秋山氏の記載がある、月山富田城での手柄を賞され元就、隆元から感状を頂く。

 

天文22年(1553年10月頃):桂元澄以下四十名が具足の注文をする。

廿両  秋山掃部助

 

弘治3年(1557年4月頃):厳島合戦の後、元就は大内氏の領国である周防、長門に攻め入ったが秋山氏もその戦闘に参加している。

 

弘治3年(1557年12月頃):秋山掃部助が軍勢狼藉禁止令に従うことを誓約した毛利氏家臣団の連署起請文に加わる。

 

永禄6年(1563):第二次月山富田城の合戦にて米子市の弓ヶ浜が戦場となる、その合戦で秋山氏が参加。

 

永禄11年(1568):毛利氏の伊予出兵に秋山民部丞も参加している。

※秋山民部丞が白木の秋山氏かは断定できない。

 

天正12年(1584年4月頃):神辺の城を城番するために秋山氏がその城番衆に入っている。

 

天正12年(1584年8月1日):杉原景盛討伐について輝元から井原氏 熊谷氏 秋山氏らに書状が届けられている。

 

天正12年(1584年8月12日):8月12日にも同様に輝元から書状が届いており、書状の中には井原元尚、熊谷就真、熊谷広真、秋山元信の連署として尾高城の件について述べられている。

 

天正19年(1591年頃):毛利八箇国御時代分限帳に秋山九郎兵衛の所領の記載がある。秋山九郎兵衛が430石を賜る。

 

(慶長2年)1597:秋山元信の所領を養子である井原元尚の次男である元応に継がせる。

※秋山氏の家名断絶。

 

慶長5年(1600):関ケ原で秋山から萩に移転する。

 

寛永8年(1631):秋山家最後の当主であった秋山元信が亡くなる。

 

 

城主家系図

志道氏の家系図の中では広良の娘が秋山某に嫁いでいる、秋山某が誰かを断定できないが、世代から秋山親吉が比定される。

 

井原元応は秋山元信の娘と婚姻して秋山姓を名乗ったが、元信が毛利輝元の勘気に触れ元応の苗字を井原に改姓させらる。

 

歴代秋山当主

秋山親次

別名:不明 【源朝臣を名乗っている】

 

推定生没年(1440頃~1500頃)

 

文明5年(1473)に畑杭八幡宮を長屋氏に譲っていることが古文書に残っており、また「国郡志下調書出帳」によれば文明7年(1475)三月二日源朝臣小笠原親次棟札に再造立したとある。

 

なお「小笠原」とは世系が小笠原流という意味合いで実名は「秋山」である。

 

15世紀前半に生まれていると考えば、その父か祖父あたりの時期にこの地域に勢力を扶植したのでないかと思われる、秋山大膳太夫が畑杭山八幡宮を建立との伝承があることから、親次の父か祖父が大膳太夫の可能性もあるが詳細は不明。

 

文正元年(1466)の秋山八幡神社新宮社殿造立棟札に「秋山村長右衛門之丞」の名が記載されており、親次の通称が「長右衛門」だった可能性もある。

 

長屋氏に宮山を売り、金3貫500匁を捻出し、高利貸し業を国人小領主自ら生業としてやっていくなど逞しい姿が見て取れる。

 

なお、親次の「親」は厳島神主家の当主であった藤原教親若しくは宗親からの偏諱の可能性も否定できない。

 

秋山親吉

別名:民部少輔 信濃守

 

推定生没年(1490頃~1550頃)

 

「親」という字から前代の「親次」と強い関係性が想像できる、父、祖父関係かそれに類する関係と思われる。

 

毛利家執権である志道広良(1467~1557)の娘が秋山某に嫁いでおり年代的には親吉の可能性が高いと思われる。

 

永正8年(1511)に毛利氏に臣従している古文書があり、『陰徳太平記』には大永4年(1524)秋山某が武田氏救援の為、毛利氏と共に佐東銀山城の救援に向かっているがこの秋山某が親吉とも考えられる、また享禄5年(1532)には毛利家臣団の署名に加わっており、毛利氏家中で譜代化していった。

 

天文12年(1543)には第一次月山富田城の合戦にて尼子攻めの時に敵方の河本弥兵衛の館を南方氏と共に占拠していたが、川が増水して、尼子軍の攻撃を受け危機に陥ったが、元就自ら救援して死地を脱した事が『吉田物語』や『陰徳太平記』に記載されている。

 

また、古文書でもその当時の活躍を賞される感状があり、毛利家が拡大する段階で初期から付き従って重要な役割を果たした国衆としてみることができる。

 

その後、史料に出てこない事からこの頃に隠居か亡くなったものと考えられる。

 

なお、親吉の「親」は厳島神主家の当主であった藤原宗親若しくは興親からの偏諱と思われまだ毛利家よりも厳島神主家との関わり合いが強かったころのに偏諱をうけたものか。

 

秋山元継

別名:掃部助

 

推定生没年(1520頃~1580頃)

 

天文12年(1543)に第一次月山富田城攻めで手柄を賞され元就、隆元から感状を頂く、その時に親吉も同じ月山富田城攻めに参加していたことから、親子の可能性が強いと思われる、天文19年(1550)元継も毛利家臣団で誓約しており完全譜代化していることが分かる。

 

弘治3年(1557)秋山某が防州へ攻め入ると『吉田物語』では記載されているが、同年に毛利家臣団にて署名している古文書があることから某は元継と思われる、永禄6年(1563)秋山某が第二次月山富田合戦に参戦と『吉田物語』や『陰徳太平記』に記載されているがこれも元継だと思われる。

 

第一次、第二次共に月山富田城の合戦に参加している事となる。天文22年(1553)に「秋山掃部助」で武具の注文をしている。

 

永禄11年(1568)に秋山民部丞が伊予に攻めているが、この民部丞に関しては不明であるが年代からして元継の兄弟にあたる人物か若しくは古文書の誤謬で実際は「民部丞」ではなく「掃部助」と考えられる事も出来るが全く別の系統の可能性もある。

 

元継の「元」は元就の「元」からの偏諱の可能性もある。

 

秋山元信

別名:兵部少輔 小輔五郎 九郎兵衛

 

推定生没年(1550頃~1631)

 

元継の嫡子と思われる、妻は「中郡衆」であった井原元良(?~1602)の娘であり、井原元尚は義兄に当たる、また養子としてこの元尚の次男である元応を自分の娘の婿養子として秋山家を継がしている。

 

元信が活躍した頃には元就もすでに亡く、孫の輝元の時代であった、天正10年(1582)の杉原氏の討伐をしている頃には本能寺の変で織田信長が横死、豊臣秀吉の統一の時期であった。

 

義兄である井原元尚の勢力拡大に準じて秋山氏の地位も向上していったのではないか、所領は430石を賜っている。

 

しかし、慶長2年(1597)の第二次朝鮮出兵時に務めを果たせずに娘婿の元応に所領を譲り渡すように輝元から言い渡される。

 

また、元応にも輝元から秋山姓から井原姓へ苗字を復姓する旨も伝えられている。

 

娘婿の元応は井原元応として、養父である元信は隠居してから残り30年余りを秋山元信として過ごしたこととなる。

 

『芸藩通志』に秋山兵部とあるが、元信の官途名が兵部少輔なので、この人物と比定できる。

 

出雲国の秋山善神について

【広島市安佐北区白木町】中世秋山氏について

横田八幡宮。

刀を使えなくする為に石にたたきつけ刃こぼれさせた。

天正十年(1582)

秋山善神と読める。

 

 

城主石高

430.240石   秋山九郎兵衛

【内訳】

344.232石    安芸 高田

35.270石    安芸 山県

50.738石    備後 三吉

 

所感

●関ケ原前に家名断絶した珍しい国衆、どうして、朝鮮出兵を断ったのか不明(他の国衆は無理してでも渡海しているのに)

 

●城は石垣を多用しており、堅牢な城塞の雰囲気をうける。

 

●城の周りを横堀で固めている。

 

関連URL

【広島市安佐北区白木町】中世秋山氏について

秋山氏の詳細はこちら。

【広島県】古川城【広島市安佐北区白木町三田】

【広島県】鍋谷城【広島市安佐北区白木町大字井原】

 

その他の中郡衆。

 

参考URL

城郭放浪記(安芸藤加勢城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『安芸の城館』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/01/30

 

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