城データ
城名:萩原城
別名:萩原山城
標高:164m
比高:68m
築城年:不明
城主:三田氏
場所:広島県広島市安佐北区白木町三田
北緯:東経:34.524587/132.634583
攻城記
手前の小山が萩原城。
看板に沿っていく。
山尾根を上がっていく。
登っていく。
遺構は感じられない。
まだまだ先のようだ。
途中からみた風景。
藪化が酷くなってくる、ここで終了。
昔はこの三篠川は城側近くにあったようだ。
余湖図【萩原城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
open-hinataより【萩原城】
『芸藩通志』【萩原城】
位置関係
城の概要
1郭の背後に当たる南東側に堀切を設け、他の方向には郭と帯郭を配した造りである。
城跡の北麓には、二段の石垣をめぐらした削平地があって、居館跡と推定される。
ここには一部に庭園らしき跡も認められている。
本城跡は三田氏の本城と伝えられている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
萩原城
萩原城 萩原城は中世三田氏の本城であったとされている。原據になったのは国郡志書出帳で、「萩原城 古川の上山に有之 右少輔七郎元実の本城にて 能登守嫡備前守実重是に居城す 備前守嫡六郎兵衛実正に至り士官を辞して 終に慶長年中農士に下る、依て廃城 す」とあるに依ったと思われる。
それ以前に萩原城が三田氏の本城であるとする記録は見出せない。(1)
この記事は考えて見る必要がある。
少輔七郎を三田氏の祖としたことは不審で、少輔七郎は天正中の人で備前守と同時代であり、決して備前守の祖ではない。
天 正十九年(一五九一)の安芸国給地付絵図に三田少輔七郎は千二百二十石六升八合を知行しているので知られるであろう。
また備前守が守ったのは古川城(七郎城)であってこの城ではない。
国郡志書出帳には疑問があると、当時の庄屋が本控に識語を残している。
この帳を作成する途中で庄屋二人とも病気や事故で編さんの責任を果すことができなかったのであ る。
国郡志書出帳は信ずべき唯一の記録でなく、唯別に纒った資料がないので便宜用いられて来たに過ぎない。
永正の頃(一五〇四~一五二〇)三田の領主は周防守元盛であった。その子能登守は弟の毛利隆元に近侍したとされる右衛門太夫元親に所領を譲った。
以後三田の領主は右衛門太夫の子孫が継ぎ、少輔七郎元実、五郎右衛門吉秀、久七郎某に至って毛利氏に随って長州に移った。
尤も父子兄弟の続柄は不明である。
三田氏は小さな領主で独自に行動 たわけでなく、戦乱には中郡道筋の内藤氏、井原氏、秋山氏らと行動を共にした中郡衆の一人に過ぎなかった。
その後、毛利氏に臣従して知行を給されてきた。
広島築城前に井原氏、市川氏、秋山氏等は中郡道筋から離されて他邦に移されたが、三田氏はひとり三田に残った。
その間、三田氏は萩原城を守ったことがあるか、それとも新城の居館にいたか、不明である。
右衛門大夫が毛利氏に従って山口から九州へ転戦する弘治、永禄の間(一五五五 ―)家老に己斐和泉、野尻左近太夫の二人があって、勇戦し、再度元就から賞詞を受けてい る。
その一人である野尻氏の子孫は長く鳥居原に居住した。
野尻氏は萩原城に関係があ ったのではないかと野尻氏の存在が注目されるのである。
註(1) 三田の城跡について、正徳帳、高田郡村々覚書(高田郡史資料編)、安芸風土記(備後叢書第十一巻)に次の記事がある。
かいと
一古城山壱ヶ所 高十八間よこ五十間城主不知 慶長三ツチノエ成ノとし伏見にて御死去
一三田五郎右衛門殿屋敷跡畠二成申候 是は輝元御家人にて知行三千石の由
(正徳帳)
かいと
一城山壱ヶ所(高八十間横五十間程)但腰林此城主知し不申候
一三田五郎右衛門殿屋敷跡 元就公御家人にて知行高三千石、輝元公長州へ御国替之時 御供之由屋敷跡今ハ畠ケにて御座候
(高田郡村々覚帳)
三田村の城跡は三田能登守の居城のよし又、三田五郎右衛門の屋敷跡これあるよし
(芸備風土記)
『わがふるさと芸州三田』より引用。
城の歴史
永仁6年(1298):厳島社領三田新庄の上村と下村の境界を定める。
永正4年(1507):毛利興元、三田小次郎に高田郡長屋村以下を与え、これに応じて小次郎の父三田元親が興元に忠誠を誓う。
大永4年( 1524):『陰徳太平記』に尼子側として武田氏が籠もる安芸銀山城の救援に秋山等と向かう記載有り。
天文元年(1532):三田元実、秋山親吉等と共に利害関係の調停を要請した家臣団の連署起請文に加わる。
天文8年(1539):柳原八幡宮棟札に「藤原朝臣能登守元吉」が見える。
天文19年(1550):三田元親、秋山元継等と共に元就の上意に従うなどを誓約。
弘治3年(1557):三田周防守、秋山元継等と共に軍勢狼籍禁止命令に従うことを誓約。
城主家系図
萩原城の城主が備前守元秀という伝承もあるので、当初は長男系統である元吉の居城だったのかもしれない。
家系図には伝承が誤って伝わっている可能性もあり、絶対ではない。
城主石高
三田少輔七郎(元実)
1220.068石
【内訳】
952.167石 安芸 高田
267.901石 備後 三谷
三田五郎右衛門(吉秀か)
33.159石 安芸 佐東
所感
●城の遺構としては単純でこの城が本城とは考えにくい、かなり古い時代(三田氏入部頃)の本城だったのかもしれない。
●当時この城の東側までが秋山氏の支配地域だったと考えられ、秋山氏の侵攻に対していち早く気づくための砦だった可能性もある。
●また、三田氏は長男である元吉が家督を弟の元親に譲っているため、弟が古川城で兄系統である元吉の子孫がこの城を守ったのかもしれない。
関連URL
参考URL
参考文献
『わがふるさと芸州三田』永井彌六著
『白木町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/30