城データ
城名:星ヶ城
別名:無し
標高:279m
比高:152m
築城年:不明
城主:井上元兼、市川経好とされている。
場所:広島県広島市安佐北区白木町大字市川
北緯:東経:34.560628/132.666139
攻城記
本丸。
井戸跡。
だいぶん埋まっている。
周辺部曲輪。
麓を臨む。
人工的ではなさそう。
星ヶ城の特徴である3条の畝状竪堀群。
畝状竪堀から本丸を見上げる。
位置関係
open-hinataより【星カ城】
余湖図【星ヶ城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【星ヶ城】
城の概要
二段からなる1郭を中心に、南に向かっては三つの郭を階段状に連ね、その前面に大堀切を配して尾根を断ち切っている。
また、1郭の北側では堀切と土塁とを交互に三条ずつ設け、その北に大小三つの郭を階段状に並べている。
そして、これよりさらに50mほど北に尾根を分断する大堀切を置いている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
天文3年(1534):このころ般若谷の合戦があり、武田方が負け毛利氏の勢力範囲となる、星ヶ城も城主が毛利方(井上元兼)に代わる。
天文7年(1538):八幡宮の棟札に井上元盛の名前があり市川村を支配していたのは元盛だった可能性もある。
天文19年(1550):毛利元就が井上一族の誅殺を実施して、元兼も誅殺される、その後は市川経好が入城する。
弘治3年(1557):周防国高峰城番に抜擢され転封する、所領はこのままであったかは不明。
天正12年(1584):市川経好が亡くなり、次男元好が家督相続する。
天正16年(1588):元好の出雲国への給地替えを行う、ここで市川村から完全に離れる。
城主家系図
井上氏家系図
市川氏家系図
所感
●城自体謎に包まれている、武田氏が支配していた時も市川氏という氏族が支配していたかは定かではない。
●般若谷の戦いで武田氏が討死しており、武田氏の支配していた城と考えられる。
●その後井上氏、市川氏と続くが、本城ではなく支城の可能性もある。
※本城は順教寺の上の山(木船山)の可能性もある。
関連URL
市川氏の本城かもしれない城。
参考URL
参考文献
『白木町史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/29