城データ
城名:池田城
別名:無し
標高:35m
比高:20m
築城年:室町時代
城主:池田氏?高木氏
場所:広島県広島市佐伯区城山
北緯:東経:34.386497/132.355145
攻城記
城の頂上付近一段したの曲輪。
本丸付近。
特段遺構は無い。
投石用の石か。
山頂からの眺望。
東側側面。
本丸方向。
余湖図【池田城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
戦後すぐの航空写真
城の概要
池田城は、極楽寺山から延びた尾根の先に築かれた戦国時代の山城である。
旧山陽道を見渡せる位置にあり、また、水軍の城といわれる草津城とも深い関わりがあったと考えることができる。
交通の要所を押さえる意味でとても重要な役割を果たす山城だったといえる。
遺跡からは弥生時代の土器なども見つかっている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
池田城跡 五日市町五日市七丁目
八幡川の右岸、保井田・倉重との境にあたる地毛(寺家)の標高約五〇メートルの城山にある。
「芸藩通志」に 「一にしげ城と称す」とあり、寺家城ともよばれた。
城主 は、正徳五年(一七一五)の「芸州佐伯郡寺社」「佐伯町誌」 所収)は不明とするが、「五日市町誌」は初代城主を南北朝時代の池田教正とし、永禄九年(一五六六)からは毛利氏家臣高木信光としている。
信光の孫信行は福島正則の帰農策に抵抗したが、元和元年(一六一五)八月に福島勢に襲われ、倉重の花山月見屋敷で自刃したといい、保井田の「鼻そぎ」、倉重の「かくれざこ」はその関連地名と伝える。
近くに池田橋・池田地、倉重に池田屋敷などの地名が残る。
『広島県の地名』より引用。
『池田城跡発掘調査報告』より一部抜粋
文献からみると,既述のように厳島神主家と武田氏の対立に,大内氏・細川氏が加わり,安芸国内で大規模な武力衝突が始まるのは,15世紀中頃である。それ以後,安芸国内は,毛利氏の統一まで武力衝突がくり返される。
また,「芸藩通志』には,「池田一にしげ城と称す」と記載されているのみであるが,保井田村と倉重村の『国郡志下調書出帳』の旧家の条にはもっと詳しい記事がある。
記事の内容には若干の相違があるが,①永禄7年(1564)に高木氏が池田城を与えられたこと②毛利氏の防長移封に伴い高木氏も同行したが,一族のうち当地に留まったもののあったことの2点は共通している。
このことから,本城跡は16世紀後半から16世紀末にかけて,毛利氏配下の高木氏が居城したことが推定される。
安芸国内の歴史的背景及び上記の記事から,本城跡は,15世紀後半から16世紀末にかけて使用された可能性が強い。
以上のように遺物と文献からの検討結果がほぼ一致することから,本城跡の使用時期は15世紀後半から16世紀に比定できよう。
また,本城跡は,北東側一武田氏の本拠金山城の方向一を意識して築かれていることから,武田氏と対抗するために厳島神主家及びその配下の神領衆によって築かれた可能性が強い。
このことは,本城跡周辺に五日市(光明寺城)の宍戸,坪井の新里民という有力神領衆がおり,その他にも,地名から寺地氏,三宅氏,高井氏などの神領衆の存在がうかがわれることからも裏付けられよう。
なお,本城跡の城主として,巷間伝えられる池田教正については,それを裏付けるだけの根拠はみあたらないようである。
城の歴史
文献等にこの城の歴史の事が載っているものはないが、地域的に厳島神領に属しており、室町時代などはしの支配下に置かれておたものと想像できる。
厳島合戦後は毛利の支配地域となり、家臣の高木氏が入部したと考えられる。
高木氏は関ケ原の後に萩に移ったと思われるが、一族の一部がこの地にとどまり、土豪として若干の勢力を保持していたが、福島正則の帰農政策に反発した結果成敗された。
なお池田教正との関係は全く分からない。
城主家系図
高木信安が1564年に城主になったとされる、一族は関ケ原で萩に行くが一部残った庶流がおりこの地にとどまる、そして信行の時代である1615年に福島正則に成敗される。
城主石高
『毛利八箇国御時代分限帳』には高木姓の人間が6人おり10~30石余りの石高である。
この中に池田城主である高木氏もいるかもしれないが詳細不明。
所感
●城としては西の茶臼山城の出城のような印象をうける。
●それでも曲輪の数も多く、城としてはしっかりと機能していたものと考える。
●当時はこの付近まで海であったと想像され、海城としての性格も有していたのかもしれない。
関連URL
近隣の海城。
参考URL
参考文献
『池田城跡発掘調査報告』
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/23