城データ
城名:岩原城
別名:己斐古城
標高:90m
比高:70m
築城年:不明
城主:己斐氏
場所:広島県広島市西区己斐西町
北緯:東経:34.397353/132.420656
攻城記
旭山神社から登っていく。
城は特段大きな遺構は無い、そのまま本丸に進む。
曲輪だと思われる。
さらに進む。
本丸部分。
己斐古城跡
種別:中世山城 住所:西区己斐西町
この山城跡は、自然地形を巧く利用し、地面を平らに加工したり(郭)、深く掘り込んだり(堀切)するなど、防御を固める様々な工夫を施して造られています。
このような山城跡は、広島市内から200近く見つかっていますが、大部分は戦国時代(1467~1578)を中心とした時期に造られたものと考えられ、大小の山城がそれぞれの領地を取り囲むように配置されています。
この山城の場合は、大田川河口の西端、眼下に広島湾を出入りする船舶を監視することのできる絶好の位置に造られており、当時は麓まで海岸線がせまっていたものとも考えられますので、船着場を伴った水軍城であったかもしれませんね。
城主等の記録は残っていませんが、急斜面に造られた数多くの郭が当時の面影をしのばせてくれます。
広島市内を臨む(当時は海であった)
己斐新城(平原城)を臨む。
位置関係
余湖図【己斐古城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【己斐古城、新城】
城の概要
本城跡は、柚木城山(標高339.6m)から東南へ延びる丘陵先端に位置している。
旧状は麓まで海岸線が迫っていたと考えられている。
最高所の1郭の周囲には2~3段の郭を巡らせており、背後は不明瞭ながら堀切を配している。
なお、周囲は開墾が進み城跡の周囲にも多数の平坦面が存在しており、これらの解釈次第では城域が拡大する可能性もある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
●詳細は不明、己斐新城までの城とも思われるので、古い時代の城だと思われる。
城主家系図
城主石高
己斐理右衛門(興員)1022.325石
【内訳】
829.765石 周防 都濃
192.560石 周防 熊毛
己斐氏の謎
己斐直之は家督を弟の弟の興員に譲り、自分は白木村(現在の安佐北区白木町三田)に在住する。
しかし、己斐からは縁が薄いため、どうしてその場所に転居したか不明である、共通点としたら、己斐地域は厳島神領であり、白木も古来から厳島神領があったのかもしれない。
戦国時代にはほぼ神領もなかったと思われるが、古い時代に己斐一族がすでにこの地に移転した者をたよりに移転したとも考えられる。
白木の近隣の志和天野氏家臣に己斐氏が戦功をあげて記載されている。
※己斐彦七郎 己斐藤次郎 己斐豊後守など。
白木在住した己斐一族の内上記の者が天野家に仕えたのであれば、戦国時代初期までにはこの地にいたとも考えられる。
所感
●旭山神社の山頂を登ればすぐに到着する。
●特段整備されていないので、曲輪の遺構は確認しにくい。
●己斐氏は厳島神領衆であった為、古くからこの土地に在住していたと思われる。
●直之は白木村(安佐北区白木三田)に転居。
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/15