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城データ

城名:松山城

別名:川上城、河上城

標高:145m

比高:130m

築城年:嘉元元年(1303)

城主:川上氏(中原氏系)、河上氏(佐々木氏系)、川上氏(福屋氏系),小笠原氏

場所:島根県江津市松川町市村

北緯:東経:35.001998/132.286469

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※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

山に進む道に入り道なりに進むとこのような登城口がある。

松山城の矢竹。

しばらく歩いていくと城域に達して最初に古井戸跡がある。

伝桜丸。

「永禄三庚甲」の石塔 1560年とちょうど毛利氏に攻められる前の年。

本丸。

本丸から降りていった場所の堀切。

小曲輪が散見される。

石積み跡か。

本丸の下にある大きな曲輪。

松山城全景。

 

 

余湖図【松山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

西から南にかけて江川が流れ、北西を都治川、南東を上津丼川に囲まれる。南北朝期に川上(中原)氏によって築かれたと伝えられ、つづく佐々木氏も福屋氏に攻められ福屋氏の城となったとされる。

 

福屋氏の東の戦略拠点として重視されただろう。永禄元年(1558)、尼子晴久の攻撃を受け、永禄4年(1561)、毛利氏によって落城したとされる。

 

城将は福屋隆任と伝える。「見世棚櫓」「殿畑」「桜丸」の地名が残る。

 

南側伝桜丸の北東隅に「永禄三庚甲」の石塔がある。南側の連続竪堀に対して、横矢をかける位置に土塁を築く工夫が注目される。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

松山城

松山城は、別名川上城ともいう山城で、鎌倉時代の終わりごろから南北朝・室町・戦国時代と三百余年の永い間、戦場となったところで、中原、佐々木その後に、福屋、小笠原、毛利と多くの城主を迎えた市内でも珍しい古城の跡である。

 

城山の南壁は、大河・江の川が洗い、東はその支流の上津井川が深く切り込み、また西は都治川で隔てられた稀に見る天然の要害である
城址は、丘陵の南端に出丸の桜丸があり、その北およそ300メートルに本丸、本丸と桜丸の間に、二段の平地があり、古井戸もあったという。

この松山城は、嘉元元年(1303)川上孫二郎が創築した。

 

弘安の役ののち、近江国(滋賀)より、川上荘の地頭として着任した中原房隆は、藤原氏の後裔で川上孫二郎房隆と名を改め、城山の西北麓の粉野に館を建て移り住んだ。

 

これが川上の舘(別名粉野の舘)である。

 

房隆は、山田の地に氏神の春日神社を勧請し、城山山麓に萬安山清泰寺を創建した。

 

南北朝の争乱期には、南朝に味方し、石見宮方の一角をこの地で形成したため、しばしば具家方の攻撃を受けた。

 

正平5年、武家方・高師?(こうのもろやす)の石見宮方討伐軍の進撃の前に落城する。

 

初代川上氏の後に、二代目の川上氏となる佐々木祐直が足利尊氏の命をうけ、信州(長野)から来任し、鹿児島神社を市村に移し、八幡宮とした。権現宮を南川上に移し、八重山神社とし、春日神社を諏訪神社とする。

 

宮方の城から武家方の城に変わった松山城は、三代目の福屋氏を迎える。天文13年、福屋隆兼(本明城主)は、佐々木氏を討ち、隆任、兼秀、隆助を配した。毛利氏に反した福屋氏は、永禄5年、毛利軍の攻撃を受け落城する。

 

毛利氏は天正12年、三原丸山城主・小笠原氏にこの地を加増し、天正20年、小笠原氏が毛利氏によって出雲へ国替えされるのに及んで、松山城は毛利氏の所有となり、江戸時代には銀山領となる。

 

この城山には、首塚、胴塚、血谷の地名を伝えている。また、櫃城(ひつしろ)、堂ケ鼻城の出城や支城もある。

 

麓の看板より

 

松山城

松山城のあった江の川河畔の松山は南壁は江の川に臨み、東は上津井川が深 く切れ込み、西は都治川の狭隘な谷に隔てられた天然の要害であった。

 

城跡は 本丸から南に延びる丘陵の末端に桜丸と呼ぶ出丸があり、本丸と出丸との中間 には井戸跡がある。

 

桜丸の付近に首塚と称するものがあり、そこには「元文三 戌年八月建之」と記された首塚の碑がある。

 

山麓には、文永七年(一二七〇)二 月九日院快らの作という胎内銘文をもつ阿弥陀如来立像(県指定文化財)を本尊 とする万安山清泰寺(臨済宗)があるが、同寺は川上孫二郎房隆の開基と伝えら れている。

 

弘安の役ののち近江国より中原房隆が川(河)上地頭として着任し、松山城を 築いて川上孫二郎房隆と称した。

 

この時、弟正隆も都野郷の地頭となり、月出の城に入って都野三左衛門正隆と称した。

 

建武四年(延元二、一三三七)、南朝方に属した川上氏は北朝方の攻撃を受け、 暦応四年(興国二、一三四一)には吉川実経の攻撃を受ける(「吉川家文書」)など、 江の川河畔の地の利と南朝方の有力武将として北朝方からたびたび攻撃され、 ついに観応元年(正平五、一三五〇)高師泰の攻撃を受けて落城した。

 

ついで、翌観応二年には北朝方の佐々木祐直が法相寺合戦の恩賞として川上の地で七百貫を結されて信濃国より松山城に入り、川(河)上氏を称した。

 

この 時、弟佐々木行連も都治地頭として今井城に入り都治氏を称した。

 

しかし天文 (一五三二~五五)の頃、この川上氏も本明城主福屋隆兼の攻撃を受けて滅び、 天文十三年、隆兼の次男隆任が松山城に入り、同じく川上氏を称した。

 

その後、永禄元年(一五五八)、石見に進出した出雲の尼子晴久の攻撃を受けさらに同四年には福屋隆兼が毛利氏に叛したため翌五年二月、毛利氏の軍勢の 討伐をうけ(『吉川家文書別集』所収「二宮家旧蔵文書」)、福屋川上氏は滅亡した。

 

以後、この地は三原円山城に入った小笠原長旌の所領となり、松山城は廃された。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

松山城 江津市松川町市村

江川下流右岸、大きく北に曲流する江川に北東から都 治川が合流する地点を見下ろす標高一四四メートルの山 頂に設けられた山城。

 

河上郷に属するこの地は江川水運の船着場で、また温泉津道と有福道との渡船場でもあり、 地域内交通の要地である。

 

河上城ともよばれた。

 

城下の市村には戦国期「石州中郡川上市」とよばれた市場も立 てられていた(享保二年二月筆写「厳島神社廻廊棟札写」大願寺文書)。

 

河上郷地頭の河上孫三郎は建武三年(三三六)八月北朝方の攻撃を受ける。

 

その折の攻防は「御敵河上孫三 郎入道以下之城、去月廿五日押寄」とあるように(同年九月日「久利赤浪妙行代子息朝房軍忠状」久利文書)、城をめぐる 戦いで、地勢的位置の重要性と山容の要害性からすでに 南北朝期から防御施設が設けられていたとみられる。

 

翌 四年七月にも「河上孫三郎入道城郭」は再び北朝方の小笠原長氏らに攻められるが、同月二六日の小笠原貞宗代桑原家兼軍忠状(庵原文書)によれば、七月一二日には「浜手」において戦ったとあるから、松山城の麓の江川の河原で戦闘があったのであろう。

 

「河上城凶徒孫三郎入道」 は暦応四年(一三四一)八月四日の宇津々大多和(雲月峠、現金城町)での戦闘で息子の五郎左衛門尉とともに降伏するが(暦応五年六月一八日「逸見大阿代有朝軍忠状」小早川家文書)、 再び南朝方に復した可能性が高い。

 

というのも貞和六年 (一三五〇)一二月二六日に北朝方の岩田胤時が「江河井河上城」を攻略しているからである(同七年正月日「岩田胤時 軍忠状」益田家文書)。

 

松山城が再び城郭としての機能を発揮するのは戦国期になってからである。

 

永禄四年(一五六一)一一月福屋隆兼 が突然尼子方を頼って毛利氏に離反した。

 

福屋氏が河上郷に勢力を伸ばし、松山城をその拠点としたことが、所領を接していたためにもともと対立することの多かった 小笠原氏との関係を悪化させ、さらには毛利氏との関係にも間隙を生じ、福屋隆兼を離反に踏切らせたのであろう。

 

隆兼の離反により松山城は毛利氏対福屋氏の決戦の 福屋側の最前線となった。

 

毛利元就は同五年二月五日松 山城に対する総攻撃を開始した(同年二月一三日「小笠原長雄感状」清水文書)。

 

吉川氏の重臣である二宮俊実覚書(吉川 家文書別集)や年未詳二月二四日の毛利元就・隆元連署感 状注記(閥閱録)によると、松山城には福屋兼正(隆兼)次男福屋次郎や有力被官神村下野守、尼子方の牛尾次郎左衛門らが立籠っていたが、毛利方は上津井川を隔てて相対 する櫃城をまず攻め落し、元就自身が松山城を攻略したとある。

 

北西を都治川、南東を上津井川に挟まれ、西から南に かけて江川に面する。南北に延びる尾根上のピークに主郭を置き、それから江川に向かって突き出した二つの枝 脈に曲輪を配置する。

 

北方は自然地形を利用した大規模 な堀切により尾根を切断する。

 

主郭の東側斜面とそれぞれの枝脈の北側と南側には二〇本以上の畝状竪堀群を掘 り斜面防御としている。

 

さらに畝状竪堀群に向かって横 矢を掛けられる位置に曲輪を配するという縄張りに特徴がある。

 

桜丸と言伝えられる曲輪群はさらに南側で、より江川に近い尾根上に配され、一応独立した城郭として 存在し、松山城に連なる北西側の尾根には三本の堀切が 掘られている。

 

主郭にはこの堀切に面して櫓台が築かれ、 土塁もまた北方に対して配置される。

 

松山城の南部の曲輪群と呼応して江川から谷沿いに攻め上る敵兵に備えた 縄張りで、いわゆる別城一郭の縄張りをなしている。

 

 

城の歴史

嘉元元年(1303):川上房隆によって築城

 

初代川上氏
川上氏(かわのぼり)は弘安の役の後、宇都宮宗綱(中原宗綱)の次男中原宗秀の後裔中原房隆が近江国より地頭として下向し、川上氏を名乗ったことに始まるという。

 

建武2年(1337):南朝に属して北朝から攻撃を受ける。

 

暦応4年(1341):北朝方の吉川実経の攻撃を受ける。

 

正平5年(1350):北朝方の高師泰の攻撃をうけて落城滅亡する。

 

観応2年(1351):北朝方の佐々木祐直が法相寺合戦の恩賞として川上の地で七百貫を結されて信濃国より松山城に入り、川(河)上氏を称する。(2代目川上氏)

※弟佐々木行連も都治地頭として今井城に入り都治氏を称した。

 

天文年間(1532~55):2代目川上氏もこの頃、本明城主福屋隆兼の攻撃を受けて滅びる。

 

天文13年(1544):福屋隆兼の次男隆任が松山城に入り、同じく川上氏を称した。(3代目川上氏)

 

永禄元年(1558):尼子晴久の攻撃をうける。

 

永禄4年(1562):福屋隆兼が毛利氏に叛する。

 

永禄5年(1563):毛利氏の攻撃を受けて城が落城し福屋隆兼は逃亡する、

 

天正12年(1583):三原丸山城主・小笠原氏にこの地を加増。

 

天正20年(1592):小笠原氏が毛利氏によって出雲へ国替えされるのに及んで、松山城は毛利氏の所有となる。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いで毛利氏が萩に移封して廃城となる。

 

 

城主家系図

 

城主石高

佐々木祐直時代:川上の地で七百貫を賜った。

 

所感

●城はよく加工されている(築城から約300年かけてつくったもの)

 

●この地が交通の要所であった為数多くの攻防があったと思う。

 

●都治氏が最後の最後に大きな役割を果たす。
福屋氏が尼子に寝返り吉川経安の立てこもる物不言城を攻めた時に、吉川経安側は都治氏の鉄砲の名人で反撃している。このため攻撃が無理と思った福屋氏は尼子氏を頼るようにこの地から逃げる事となる。

 

 

関連URL

 

参考URL

城郭放浪記(石見松山城)

西国の山城(松山城)

川上(河上)氏

河上 – 戦国日本の津々浦々

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『日本城郭大系』14

『島根県の地名』

『島根県地名大辞典』

『石見の山城』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2022/01/09

 

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