城データ

城名:要路城(ようろじょう)

別名:丁城(よぼろじょう)、用路城,養老城,都賀西城

標高:243m

比高:160m

築城年:南北朝時代初期

城主:佐波氏、小笠原氏、高橋氏、毛利氏(口羽氏)

場所:島根県邑智郡美郷町都賀西

北緯:東経:34.960287/132.638071

要路城はここ

 

 

攻城記

麓の看板、地元では丁城と呼ばれている。

看板のある場所から10m南に行ったところに谷がありそこから尾根に直登すると尾根にでる。

どんどん進んでいくと小曲輪の跡がでてくる。

更に進むとこのような笹が茂っておりここで諦める。

しゃがんでもこのような状態。

周辺部。

要路城全景。

 

余湖図【要路城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

本城郭は安芸吉田から赤名を経由して出雲に至る交通の要地にある。

 

主郭は①郭と考えられ、西から北にかけて土塁が築かれている。主郭西側の尾根筋に対して巨大な堀切が築かれている。

 

この尾根筋に認められる堀切はいずれも深く、他の尾根筋の堀切とは明らかに異なる。

 

これは城域拡大に伴う改修強化によって新たに築き直したものとも考えられる。

 

②郭には石垣が認められる。

 

城主には佐波氏が伝えられる。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

要路城

要路城は、東方は江の川に臨み、北方は深い谷を隔てて都賀行の高い山に続き、南方には光宅寺の渓流が山麓を流れ、西方には深い樋谷の渓流を隔てて雪谷の険しい山が迫っている。

 

本丸は中央の標高三二〇mの最高所にあり、直径約三〇mの長円形の削平地で、これを中心にして東・南・西の三方向の稜線上にほぼ等高の削平地が展開 している。

 

さらに東・南の 稜線は階段状の削平地(幅 八~一〇m、長さ四〇~八 〇m)が下方に向かって続 いている。

 

要するに、本丸 を中心にして放射状の各稜線上に数段の削平地を配置する規模雄大な城であった。

 

南方の山麓、光宅寺の渓流の近くに土居原・殿屋敷、都賀西の南部に上馬下馬場の地名が残っており、「とぎ屋」と称する家も存在する。

 

都賀西の背後、 標高四八五mの陣山は当城攻囲の合戦の時、敵の向城が置かれた場所といわれている。

 

また、光宅寺(禅宗)は口羽氏の菩提寺で、ロ羽春良の墓はその背後にある宝談印塔がそれであるといわれている。

 

なお、当城の北方(背後)にある大浦の大浦城は独立の城ではなく、当城の一部を構成しているものとみてよいであろう。

 

 

要路城を築いたのは毛利氏(野津左馬之助氏説)か、あるいは小笠原氏か高橋 氏(田辺源氏説)ではなかったかという両説があるが、観応元年(正平五、一三 五〇)に青杉ヶ城で討死した佐波顕連の時代までに、佐波氏の勢力は登矢ヶ丸・ 潮城などを拠点として、現在の大和・羽須美の二村にまでその勢力を拡大していたと考えられるところからすると、要路城はすでに佐波氏が南方へ発展するための拠点であったものと思われる。

 

青杉ヶ城の戦いに際して小笠原長氏は北朝方として佐波氏領に迫り、都賀周辺を領有するに至ったが、やがて羽須美に来住した高橋師光・貞光父子が足利直冬に味方して周囲に勢力を拡大するに及んで、都賀周辺もまた小笠原氏と高橋氏との抗争地帯となり、時に高橋氏の領有に帰したこともあったようである(高橋備前守の小姓犬千代の伝承、『吾郷尾 原氏系譜』)。

 

ついで、応仁の乱を契機に佐波・高橋両氏は東軍、小笠原氏は西軍に属して相争ったが、尼子経久 が出雲富田城に興起 すると、都賀はその 石見侵入の要衝とな り、要路城の軍事的 価値も格段に上昇した。

 

さらに毛利元就が勃興して大内義隆の同盟軍として大森銀山の攻略を企図し、尼子氏と衝突す るに至り、天文九年(一五四〇)の尼子晴久の安芸吉田城(毛利元就)攻め、同十一年の大内義隆の出雲富田城(尼子晴久)攻めにあたっては、要路城はそのもっ とも重要な進攻路となった。

 

元就はまず高橋重光・ 興光を滅ぼし(享禄三年=一五三〇)、その遺領羽須美にロ羽通良を配したが、 防長二か国を征服する戦いと共に尼子氏の出雲よりの侵攻を排除しながら大森銀山の奪取を企図し、ロ羽通良を介して佐波興連と結び、小笠原長雄を抑圧する方策に出た。

 

永禄元年(一五五八)、小笠原長雄が背くと元就はこれを川本の温湯城に攻めて降伏させ、江の川北岸に長雄の領地を移した。そこで大和の地は口羽通良の 子春良や佐波興連らの支配に委ねられ、本城経光の拠る大森銀山山吹城攻略の戦いは新しい段階を迎えることとなった。

 

要路城は口羽・佐波両氏を結ぶ重要拠点となり、合わせて出雲尼子氏への防禦・進撃両面での第一線の拠点としても欠くべからざるものとなった。

 

同五年、元就は経光を謀殺して大森銀山を奪い、同十年には尼子氏を富田城において降伏させて出雲を領有するに至った。

 

その時点で要路城の使命は終わり、毛利氏は岡惣左衛門を都賀行の水玉山城に配し周辺を支配させた。

 

なお、大浦城は大浦部落中央背後の要路城と峰続きの峻峰(標高三〇〇m、 比高二〇〇m)にあったが、近くに殿屋敷の地名が残っている。

 

『日本城郭大系』14より一部引用。

 

 

要路城跡 現大和村都賀西

江川西岸、光宅寺谷の奥の標高約三二〇メートルにある山城跡。

 

用路城とも記され、丁城・養老城・都賀西城 とも称されたという。

 

築城年代は未詳だが、一説に南北 朝期に佐波氏が築城したともいわれる。

 

明確に史料に登場するのは弘治二年(一五五六)と思われる三月二〇日の毛利元就書状(閥閲録)で、「都賀、用路計ニてハ、佐波江伝 難成候条、山南一城取付、佐波伝ニ仕度由候」とある。

 

当時、石見進出を本格化させていた毛利氏は用路城を佐波郷(現邑智町)方面への中継点の一つとしていた。

 

なお天 文一一年(一五四二)出雲尼子氏攻めに先立ち大内勢の陶隆 房(晴賢)は「都賀」の山に陣を置き、江川を渡河して都賀東に進出しているが(年未詳「二宮俊実覚書」吉川家文書)、 隆房が在陣した山とは当城、あるいはその前身であろうか。

 

弘治二年八月二六日の毛利元就書状(閥閲録)には、佐 波興連・同隆秀に対して都賀半分(江川西岸か)の知行を条件に用路在城が肝要であると記され、毛利氏が最前線にあった佐波郷を完全に掌握するのに苦慮していた様子がうかがわれる。

 

当城の立地は東方は江川に臨み、荷越瀬の急流・深淵の上は懸崖直立で、北方には深い谷を隔てて都賀行の高 い山がそびえ、南方は光宅寺川が山麓を流れ、西方は深 い樋谷渓流を隔てて生谷の険しい山が迫る天然の要害で あった。

 

本丸は中央の最高所にあり、標高三二〇メート ル。直径三〇メートルほどの長円形の削平地で、これを 中心にして東・南・西の三方向の稜線上にほぼ等高の削 平地が展開している。

 

さらに東・南の稜線は階段状の削 平地が下方に向かって続いている。

 

光宅寺谷の近くに土居原・殿屋シキ、都賀西の南部に上馬場・馬場下タ・ 場頭の地名が残り、「とぎ屋」と号する家も近年まで残っ ていた。

 

当城南方の大峠(橋ヶ峠)近くの尾根の先端には南北朝期 小笠原氏が前進拠点として築いたとされる尼子陣所跡がある。

 

尼子陣所も北東の江川度河地点を臨む地にあり、 これを押えるためのものであったと思われる。

 

天文一〇 年尼子晴久が安芸国吉田(現広島県吉田町)の毛利元就を攻めて敗れ、敗走する軍勢をこの尼子陣所に集結、三日間滞陣したという(「陰徳太平記」巻一二)。

 

『島根県の地名』より引用。

 

城の歴史

建久10年(1199):この頃佐波義連ががこの地方に入部してくる、以来150年間の間にこの地方に勢力を伸ばしており、1350年頃までには砦くらいのものは築城されていたと考えられる。

 

観応元年(1350):宮方にあった佐波顕連は高師泰軍に攻められ破れ自刃、子の佐波実連が継いで所領安堵を願いでて承認されたが、都賀地方は小笠原氏が領有する事となる(小笠原長氏の二男が領有)ここに都賀の城も佐波氏から小笠原氏に移ったものと考えられる。

 

室町戦国時代:吾郷村尾原氏系譜中に都賀西よぼろ城主(溶路、要路城主)高橋備前守の小姓犬千代法師のあることであるので、一時的かどうか分からないが高橋氏の勢力範囲になっていたこともあるのではないか。

 

また阿須那村史には「高橋興光は都賀西の丁(よぼろ)城を攻め取り、ついで備後の入君の城を奪取り、阿須那の川沿いに帰途についた」ところ、戦原で弾正盛光に討たれたという。

 

このような伝承からでも都賀地方の小笠原氏と口羽、阿須那地方の高橋氏がその所領を巡って争っていたことは確実であり、城主も小笠原氏、高橋氏と変遷していったものと思われる。

 

当時この城が高橋氏のものであったのであれば、1529~1530年 高橋氏滅亡して所領が毛利氏のものとなり城主も毛利家臣である口羽通良になったと思われる。

 

弘治2年(1556):最初に資料に出てくる。

 

天文11年(1542):大内義隆の出雲征伐の時にこの城に陣を置いた可能性がある。

 

弘治2年(1556):毛利元就が、佐波興連・同隆秀に対して都賀半分の知行を条件に用路在城が肝要であると記す。

 

永禄元年(1558):この地を口羽通良の子春良や佐波興連らの支配に委ねる。

 

永禄4年(1562):この頃、毛利氏による本城常光謀殺の折り、長男の本城隆光はこの要路城の麓にある光宅寺にいたが殺される。
※天野隆重が300旗にて誅殺したとある。

 

永禄10年(1568):尼子氏を降伏させて、要路城の役目も終える、周辺の支配は岡惣左衛門を都賀行の水玉山城に配し周辺を支配させた。

 

天正20年(1593):口羽春良が文禄の役にて朝鮮において病没。

 

慶長5年(1600):関ケ原以降に廃城となる

 

所感

●佐波氏が最初に築いたのは間違いないと思うが最初は砦くらいだったのだろう。

 

●現在の城の規模になったのはおそらく毛利時代の口羽氏が大規模に改修したもの。

 

●現在遺構までの登城路もなく上までいくのは困難であった(別の尾根から行くこともできそうである)

 

●この地は要路城の名の通り川の近くにあり交通の要所であったことは現地にいって分かった。

 

●城主がコロコロ変わるのも納得できる境の地区。

 

関連URL

【島根県】琵琶甲城【邑智郡邑南町下口羽】

近隣の口羽氏の居城。

 

参考URL

丁城(ウッキペディア)

城郭放浪記(石見丁城)

武家家伝(佐波氏)

武家家伝(石見小笠原氏)

武家家伝(石見髙橋氏)

武家家伝(口羽氏)

口羽春良(ウッキペディア)

佐波興連(ウッキペディア)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『日本城郭大系』14

『島根県の地名』

『島根県地名大辞典』

『石見の山城』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2022/01/08

 

ホームに戻る

攻城一覧

 

Copyright © 山城攻城記 All Rights Reserved.