城データ
城名:藤ヶ瀬城
別名:無し
標高:438m
比高:90m
築城年:永正6年(1509)に三沢遠江守為忠によって築かれたと伝わる。
城主:三沢氏
場所:島根県仁多郡奥出雲町横田
北緯:東経:35.183890/133.090762
攻城記
藤ヶ瀬城全景。
山に向かう細い通を通り(民家の側道)上に上がると広場がある。
町指定文化財らしい。
攻城開始。
町指定だが笹が多く藪化している。
本丸部分(櫓台)
本丸部分。
南に下って最初の曲輪。
更に南に行った曲輪。
井戸跡。
周辺部。
堀切。
一旦忠魂碑のところまで戻る。
横田町の街並み。
忠魂碑のあるところから左に道があるので進むと曲輪があり展望がよい
奥に進むと諏訪神社の鳥居がある。
諏訪神社(三沢氏は諏訪地方出身なので)
三沢城にも諏訪社壇があった。
余湖図【藤ヶ瀬城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
斐伊川と下横田川が合流する位置に所在する。最高所は櫓台と考えられ、主郭は一段下がった郭とみられる。
尾根筋に深い堀切を築いて遮断している。
主郭の西側は尾根の先端まで郭が築かれているが、いずれも北側を削り残して土塁とし、尾根筋に対する防御ラインを構成している。
主郭東方の中腹に築かれている郭は「馬乗馬場」と伝えられ、整地以前は多少の起伏があったものと伝えられる。
三沢氏は三沢城から藤ケ瀬城に居城を移したとされるが、櫓台を中心とした防御ラインの存在等から、毛利軍による改修強化の可能性もある。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
藤ヶ瀬城
藤ヶ瀬城は斐伊川によって形成された大河原谷の横田盆地を眼下に見下ろす にあったが、前面は岩壁で山麓には川が流れている。
城山の北側で 山の尾根によって続いている独立丘陵となっているが、城山の形態や当城の規模、さらに山麓の地形や遺跡からみて、居館は山麓にあったものとみられ、居 館の所在地と思われる場所の付近に三沢氏の菩提所晋叟寺がある。
城山の山頂部の本郭は小規模であるが、その本郭の前面と西側は二mほどの切落しによって段築薬され、東側は急傾斜の斜面となっている。
その麓に広い馬乗馬場があり、そこから大手口に通じ、櫓跡や居館跡がある。
正面(南側)と西側にはそれぞれ二の郭・三の郭があり、西側にはさらに三つの郭が設けられ、 その前面は岩壁となっている。
本郭と北へ延びる狭い尾根との間には、一〇mほどの切落としがある。
この地は古来から砂鉄より鉄を産し、中世以降は日本の良鋼の主産地を形成 した所である。
十二世紀初頭から石清水八幡宮の荘園として維持され、十四世 紀には仙洞御所の御料所となった。
戦国争乱の時代を迎えると、院宣によって 三沢氏がこの地を地頭請所とて治安を維持し貢納を続けることになり、三沢遠江守為忠が、永正六年、横田荘を一望のもとに収めることのできる当城を築城して移ってきた。
ついで尼子氏全盛の時代になると、尼子経久はたびたび当城を攻め、享禄四年(一五三一)、ついに落とした。
のち二十数年間、尼子氏は当城に代官を置いた。
当荘の御所への貢納は天正十九年(一五九一)まで続いたといわれる。
『日本城郭大系』14より引用。
藤ヶ瀬城跡 現横田町横田
横田盆地を南方に一望できる高鍔山にある。
仁多郡西部に地盤を築いて成長した三沢氏は、一五世紀半ば横田庄に進出を始め(永享一一年八月一〇日銘横田八幡宮棟札など)、 永正六年(一五〇九)三沢為忠は高鍔山に山城を築き、居所 を移した「快円日記」・「大永古記録」岩屋寺文書)。
北方は尾根続きで西と東に谷が入り、南は岩壁で斐伊川に落込んだ地形で、斐伊川は天然の堀として使用されていた。
本郭を中心に二の郭・三の郭があり、馬乗馬場もある。
三沢氏の居宅は南東麓の段丘上にあったとみられる。城下には中村市場が移され、町場が形成された。
天正一七年 (一五八九)三沢氏が去った後には毛利輝元の家臣杉原広亮 が入った(毛利氏八箇国時代分限帳)。
文禄の役後は毛利輝元 が朝鮮出兵の際に普請した城の経験を生かし、主郭櫓台 を最前線に置き、尾根を利用した外郭をもつ城へと改築された。
関ヶ原の合戦を境に廃城となった。
主郭の西方下段の外郭に諏訪神社がある。
為忠が築城した折、出身地信濃国の諏訪神社を勧請したと伝える。
『島根県の地名』より引用。
城の歴史
永正6年(1509):三沢遠江守為忠によって築かれたといわれる。
永正11年(1514):尼子経久が攻め込むがなんとか踏みとどまり落城をさける。
享禄4年(1531):尼子経久が2万の軍勢で攻め込み落城して三沢氏が尼子配下となる。
天文元年(1532):尼子氏の代官が派遣され事実上尼子の勢力下におかれる。
天文9年(1540):三沢為幸が尼子晴久に従い吉田郡山城を攻めるが討死をする、尼子氏の大敗にて三沢氏が大内氏に寝返る。
天分12年(1542):大内義隆は毛利元就と共に出雲の尼子攻めを行うが大敗してしまう、再度尼子氏に帰順する。
※この戦いによって藤ヶ瀬城の地も完全に尼子氏が領するようになる(尼子晴久が代官の森脇家貞を送る)
月山富田城の戦いで吉川氏らと共に尼子氏に寝返り、大内軍敗退の一因を作った。
しかし三沢氏の独立性は高く、尼子氏の軍役を拒否して尼子氏との戦いに及んだ場合もあった。
こういった反抗的な態度を取ってきた三沢氏に対して尼子晴久は横田荘の三沢氏領地や砂鉄産地・たたら製鉄場を取り上げ直轄化するなど、経久に比べて強硬的な姿勢で三沢氏と統治している。
しかし、晴久の急死後から既に三沢氏も不穏な動きを見せていたこともあり、義久は父が取り上げた横田荘を返還した上で自らの妹を輿入れする等して懐柔しようとした。
永禄4年(1561):毛利元就が出雲へ侵攻すると赤穴氏や三刀屋氏と共に三沢為清も毛利に降伏し、その後は毛利軍の主力として活躍した
このころ藤ヶ瀬城も三沢氏の基に戻る。
天正5年(1577):三沢為清は隠居して亀嵩城を築きそこへ移動する、このころ息子の為虎は亀嵩城や藤ヶ瀬城を行き来している。
天正17年(1589):三沢為虎が安芸国に移る事になる。
この年は調度広島城が築城開始され毛利家臣は城下に住まわされる事になった。
ちなみに藤ヶ瀬城には毛利輝元の家臣の杉原広亮が入城する(1409石を宛がわれる)
慶長5年(1600):関ケ原の戦いにおいて廃城となる。
城主家系図
所感
●三沢氏は出雲国では尼子氏と肩を並べる存在であったがそれは、この横田地方が製鉄の産地で豊富な鉄鋼資源を背景に財力や軍事力を蓄えていたものと考えられる、なので代官の森脇家貞をおくり鉄資源の管理を行っていたのだろう。
●尼子氏に従っていたものの、1542年の大内氏における出雲侵攻では尼子から寝返り、大内氏敗北後はすぐに尼子に帰順。
●1561年の毛利氏の侵攻では毛利氏に従い主力部隊として活躍する。
●城の遺構は大きく整っているがいかんせん整備されておらず残念。
●大きな井戸跡もあり見応え十分。
●最初の登城路は笹で藪化しているが10mくらい進むとまた普通の道になる。
関連URL
三沢氏本城。
参考URL
藤ヶ瀬城 -出雲の城ー
参考文献
『仁多町誌』
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2022/01/08