城データ

城名:富田城(とだじょう)

別名:月山城、月山富田城

標高:184m

比高:160m

築城年:室町時代

城主:尼子氏、毛利氏、吉川氏、堀尾氏

場所:島根県安来市広瀬町富田

北緯:東経:35.360237/133.186045

富田城はここ

 

 

攻城記

登り口は沢山ある。

有名な山中鹿介の銅像。

奥書院平にある。

花の壇からみた本丸方向。

山中御殿平。

整備されており分かりやすい。

七曲りを取って登っていく。

登城スタート。

一旦山中御殿平を振り返る。

少し登ったところからみた風景。

山頂からみた風景。

三の丸の石垣。

毛利時代以降に築城されたものと思われる。

木々も伐採されており分かりやすい。

二の丸付近。

二の丸に建てられている建築物が見える。

本丸。

本丸から二の丸を臨む。

間に堀切がある。

麓に戻る。

毛利時代の石垣か。

花の壇の麓。

 

周辺尼子氏関連

尼子晴久墓

 

尼子(塩冶)興久墓

 

尼子清定、経久墓

左が経久の墓で右が清定の墓。

 

余湖図【富田城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

赤色立体地図

安来市立歴史資料館より

 

城の概要

尼子氏の居城であるが、現存する遺構は、尼子・毛利 (吉川)・ 堀尾の三氏三代 による改修の姿を留めている。

 

主要部は、堀尾吉晴の大改修によって、尼子・毛利 (吉川)氏時代の縄張りは不明確なものとなっている。

 

縄張りの範囲は塩谷、新宮谷に挟まれた丘陵全体からなり極めて大規模なものである。

 

しかし 、新宮谷に接する丘陵の普請は他に比較して見劣りするため、時代が下るに従ってその規模は縮小されていったものと推定される。

 

三本の主要な登城路が知られるが、いずれも谷筋に設けてあ り、谷の両側から攻撃する防御側の戦法がうかがえる。

 

この三本の登城路が合流する地点に築かれているのが山中御殿であり、富田城の中核部で もある。

 

山中御殿には、高石垣が築かれている。

 

縄張りを見ると南側石垣のコーナー部は一般に古いとされる鈍角の構造を示すが、北側のそれは、直角の構造をもっている。

 

これは、両者の時期差を示すものと考えられる。

 

最高所の山頂部は、近年の調査により、石垣を伴う虎口が検出された。

 

これは、従来の地表面観察では検出されなかったことから、破城の際に埋められたものか、破城後埋没したものと考えられる。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用。

 

富田城

富田の地に最初に居館を構えたのは、平宗清・平景清・佐々木高綱およびその弟の義清などの諸説があって明らかではないが、いずれにしても長寛年間 (一一六三―六五)から文治年間(一一八五-九〇)の初頭頃のようである。

 

『出雲私史』によれば、源頼朝が文治元年、近江源氏佐々木高綱の弟義清を出雲守護に任命して以来、佐々木氏が富田に館を構えたという。

 

四代目の守護、義清の孫頼泰は出雲の塩冶大廻城に居城し、富田には守護代を置いた。

 

その後、六代目の守護高貞は因幡・伯耆の守護山名時氏に滅ぼされて、一時佐々木氏は排除される。

 

しかし、明徳二年(元中八、一三九一)の明徳の乱ののち、再び佐々木氏の勢力下になり、京極佐々木高詮が出雲守護となった。

 

その守護代として、尼子持久が尼子氏の第一代として下向し、富田城に居城した。尼子氏は京極高秀の第三子高久が近江国犬上郡尼子荘を領してその在地名を名のったのに始まる。

 

持久の子清定は「千家文書」によれば、九十九町余の富田荘と九十一町余 の吉田荘とを与えられていたと考えられるが、応仁の乱をきっかけとして地方豪族を支配下に置き、私領を拡大した。

 

さらに、山陰有数の港であった美保関港をも掌握し、諸廻船からの勘過料を徴収し、経済基盤を確保した。

 

こうしてしだいに勢力を得た尼子氏は守護の京極氏と対立し、三代経久の時には守護代を罷免され富田城から追放される。

 

しかし、逆に経久は文明十八年 (一四八六)城代の塩冶掃部介を攻め、守護領国制を打破して戦国大名となった。

 

これ以後、経久が天文十年(一五四一)に八十四歳で没するまでの間が尼子氏のもっとも繁栄した時であり、その勢力範囲は東は因幡・播磨、西は石見・備後までの十一か国にも及んだという。

 

城下の町並は、絵図面によると飯梨川河口まで実に一〇㎞も続いていたといわれる。

 

経久のあとは政久・晴久・義久と続 いた。

 

晴久は天文九年八月、安芸郡山城に遠征して毛利元就を攻めたが敗北し、翌十年一月十四日富田に帰った。

 

ついでそれとは逆に、同十二年二月大内義隆の軍が京羅木山に本陣を置き、二度にわたって富田城を攻撃したが、尼子方に反撃されて敗走した。

 

その後、晴久の跡を継いだ義久の時、毛利元就の三万の軍勢が富田城を包囲したため、尼子方は籠城したが兵糧が乏しく いも相次いで降伏したため、永禄九年(一五六六)十一月、義久は元就は開城した。

 

その後同十二年、尼子氏の武将山中鹿介は尼子勝久を奉じて富田城奪還を試みたが敗れ、尼子氏は滅亡した。

 

尼子氏に代わった毛利氏は富田城に城代として天野隆重を配し、ついで毛利元就・元康、さらに吉川春・広家を置いた。

 

しかし、関ヶ原の戦で敗れた毛利 氏は富田城を追われ、代わって徳川家康は遠江浜松から堀尾吉晴を入城させた。

 

しかし三代目の忠晴の時、慶長十六年(一六一一)に松江城が完成し、そこに移城したため、その後、富田城は荒廃することとなる。

 

富田城の繩張りについては、堀江友声筆の「月山富田城絵図」や「富田城下 図」(城安寺所蔵)などが知られているが、いずれも幕末から明治初年の想像図 で事実を伝えるものではないといわれている。

 

 

富田城山中御殿平にある相当規模の石垣は有名で、尼子氏の時代の遺構の代表といわれてきたが、築城に際し て石垣が用いられた時期についても考慮する必要があり、はたして尼子氏の時 代のものかどうか、尼子氏のものとしてもいつの時期のものかなど疑問を挾む余地があろうと思われる。

 

つまり富田城の城郭については、佐々木・山名・尼 子・毛利・堀尾氏と城主が移り変わる中にその発展過程を探る必要があろう。

 

そうすれば、『広瀬町史』のいう「頂上のこととなると色々異見のあるものは どういうものであろうか」という疑問も解明できるであろう。

 

『日本城郭大系』14より一部抜粋。

 

富田城跡 現広瀬町富田

 

月山に築かれた中世から近世初頭の城郭。

 

戦国期の史料には戸田城とも記され、また月山富田城・月山城とも よばれた。

 

国指定史跡。「雲陽軍実記」などの軍記物には、源平争乱時に平家の武将が築いたとも記されるが、 その根拠は明らかではない。

 

富田庄は承久の乱以後、出雲国守護佐々木氏による支配が確認されるが、守護によ る支配は鎌倉初期以来のものであり、それは平家没官領であったとみられるので、平家と富田城の関係も想定可能である。

 

鎌倉中期から約一世紀間は佐々木氏の一族富田氏が支配したが、富田城がその機能を果すのは南北朝 の動乱においてであろう。

 

観応元年(一三五〇)八月日の諏訪部貞助軍忠状(三万屋文書)には「富田関所」の記載がある。

 

伯耆国や美作国に隣接することもあって政治的・軍 事的重要性が高まり、また中国山地地域の鉄の生産と流通を掌握するうえでも重視されたのであろう。

 

康暦元年 (一三七九)に出雲国守護が京極氏から山名氏に交替したことに伴う合戦が富田城や近接の新宮城で行われ(応永一九 年四月日「戦倉寺再興勧進帳」戦倉寺文書、続群書類従本「佐々 木系図」)、明徳四年(一三九三)には明徳の乱で敗れた山名満幸の代官塩冶駿河守が富田城に籠城している(明徳記)。

 

一五世紀以降、守護京極氏の出雲国支配が展開していく なか富田城はその拠点となり、一五世紀中頃以降には尼 子氏が出雲守護代として富田城を管理していたと考えられる。

 

応仁・文明の乱においては、伯耆国の山名氏との対立が深まったこともあり、富田城の大木戸役を出雲国人が交替で勤めていたが、なかには下笠氏のように山名氏と結んで門の警護から離脱するものもあった(推定文明 八年五月一二日「京極政高書状」佐々木家文書)。

 

天文一〇年(一五四一)の尼子氏の安芸国吉田(現広島県吉 田町)攻撃が失敗したことにより、同一二年には大内軍が京羅木山に布陣して富田城を攻撃したが、成果をあげることなく退却している(陰徳太平記)。

 

永禄五年(一五六二)暮以後は洗合(現松江市)に布陣した毛利元就軍が富田城を包囲し(同書)、同九年一一月二八日には尼子義久が降伏し て城を明渡している(「二宮俊実覚書」吉川家文書)。

 

毛利氏は富田城に毛利元秋と天野降重を置いたが、同一二年六月には尼子勝久を中心とする尼子再興軍が出雲国に進入し、 富田城奪回を目指した。

 

その最中の一二月一九日毛利(宮 田)元秋は富田庄七〇〇貫・山佐三〇〇貫など富田城周辺 の所領を与えられている(「毛利元就・同輝元連署充行状」閥閲録)。

 

そして翌年二月一四日の布部の戦いで毛利軍に尼子軍は敗れ(同月一八日「毛利元就書状」毛利家文書)、富田城奪回は失敗に終わった。

 

その後天正五年(一五七七)には毛利の手で富田城の普請が行われており(同年七月二四日「毛 輝元書状」閣間緑)、また富田城者谷口には尼子氏の館(里 殿)があったとされるが、毛利方により「尼子殿土居普請」も行われている(年未詳四月一四日「毛利輝元書状」同書)。

 

元秋が天正一三年に死亡した後は元秋の弟毛利元康 が富田城に入ったが、同一九年には実質的に出雲国を支 配していた吉川氏の当主となった広家が富田城に入り、 豊臣政権下で出雲国(能義・意宇二郡)と伯耆国・隠岐国・ 石見国・安芸国で合計一四万二千石余の知行を認められ (同年三月一三日「豊臣秀吉検地知行物并目録写」・年月日未詳「吉 川氏知行目録」吉川家文書)、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合 戦まで支配した。

 

関ヶ原合戦後吉川氏に代わって富田城に入ったのは出雲・隠岐二国二四万石を与えられた堀尾忠氏で、同氏に よって城郭はさらに整備された。発掘調査により富田城の御殿平は三次にわたる造成が行われていることが明らかになった。

 

尼子氏の時代に造成が始まったが、当初は 石垣もなく規模の小さいものであった。それが第二次の毛利氏による造成で面積を拡大するとともに石垣が使用 され、さらに第三次の堀尾氏による造成では入口(大手門) を変更し、面積を大幅に拡張して現在遺存している区画 が作られている。

 

それと同時に山頂の主郭部分も全周を 石垣で固められた。

 

堀尾氏は富田城が出雲国の東に偏っており、かつ城下となる周辺地域が狭小なため松江への城の移転を進めているが、新たな支配地でもあり、かつ 軍事的緊張状態も継続しているため富田城の整備も行っ たのであろう。

 

しかし慶長年間の堀尾氏の松江移城により廃城となった。

 

『島根県の地名』より引用。

 

城の歴史

源平争乱時:平家の武将が築いたとも記されるが伝承の域を出ない。

 

観応元年:(1350):「富田関所」の記載があるが富田城かどうかは不明。

 

康暦元年(1379):出雲国守護が京極氏から山名氏に交替したことに伴う合戦が富田城付近で行われる。

 

明徳四年(1393):明徳の乱で敗れた山名満幸の代官塩冶駿河守が富田城に籠城する後に佐々木氏(京極氏)の勢力範囲になる。

 

15世紀:京極氏の守護代として尼子持久が下向し、富田城を居城とする。

 

文明16年(1484):この頃尼子経久が守護代の職を剥奪されて城から追われる。

 

文明18年(1486):尼子経久が城を奪取する。

 

天文10年(1541):尼子経久没。

 

天文12年(1542):大内義隆が富田城を攻めるが尼子晴久が撃退する。

 

永禄5年(1562):毛利元就が富田城を攻める。

 

永禄9年(1566):尼子義久が降伏して毛利の城となる。

 

永禄12年(1569):尼子勝久の尼子再興軍が富田城を奪取しようと城を目指す。

 

元亀元年(1570):尼子再興軍は毛利軍に敗れて失敗に終わる。

 

天正5年(1577):富田城の改修が行われる。

 

天正13年(1885):城主であった毛利元秋が亡くなり、弟の毛利元康が城に入る。

 

天正19年(1591):吉川広家が城に入る。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いで城主が吉川氏が移封して堀尾氏が入部する。

 

慶長16年(1611):堀尾氏が松江城に移動して廃城となる。

 

 

城主家系図

尼子方

青字は城の歴史の中に記載された人物。

 

毛利方

青字は毛利方の歴代城主。

 

城主石高

尼子時代:最盛期には120万石であった。

 

毛利元秋時代:出雲国に3500貫、うち富田庄は700貫。

 

吉川時代:14.2万石。

 

堀尾時代:24万石。

 

所感

●現在の城域は毛利時代の改修、堀尾時代に大幅改修されており、尼子時代は土の城であったと思われる。

 

●山中御殿平には大きな御殿が建てられる位広い敷地があり、尼子や毛利、堀尾氏など歴代の城主が館を構えていたと思うとワクワクする。

 

●花の壇からみた七曲りの景色には圧巻。

 

●山頂の二の丸からは遠く安来方面も臨むことができる。

 

関連URL

尼子十旗

【島根県】白鹿城【尼子十旗1城目】

【島根県】三沢城【尼子十旗2城目】

【島根県】三刀屋城【尼子十旗3城目】

【島根県】瀬戸山城【尼子十旗4城目】

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【島根県】熊野城【尼子十旗8城目】

【島根県】馬木城【尼子十旗9城目】

【島根県】高麻城【尼子十旗10城目】

 

参考URL

月山富田城(ウッキペディア)

城郭放浪記(出雲富田城)

武家家伝(尼子氏)

毛利元秋(ウッキペディア)

毛利元康(ウッキペディア)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『日本城郭大系』14

『島根県の地名』

『島根県地名大辞典』

『出雲の山城』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2022/01/08

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