城データ
城名:宍道要害城
別名:無し
標高:42m
比高:40m
築城年:不明
城主:宍道氏
場所:島根県松江市宍道町宍道
北緯:東経:35.403005/132.907422
攻城記
現在は公園となっている。
宍道要害山
宍道要害山は、戦国時代(15~16世紀)に築かれたと推定される山城の跡です。
当時、この地は金山要害山(坂口要害山ともいう)を本城とする宍道氏の支配下に置かれていました。
街道と宍道湖の海運の要衝をおさえるために、この宍道要害山を築いたのでしょう。ここに代官をおいて警護にあたらせたといいます。
左図は、縄張り図といいますが、城を防備するための平坦地(曲輪)を示しています。
登り始めてすぐに削平地が見られる。
一番長大な曲輪。
当時は宍道湖が城の付近まできていたかもしれない。
遠くには鳶ヶ巣城も見える。
本丸1段したの曲輪。
本丸には忠魂碑がある。
隣には古墳の石室もある。
曲輪跡。
公園なので整備されており散策しやすい。
位置関係
宍道要害山城は支城と考えられる。
余湖図【宍道要害山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
金山要害山城の北方約3.5キロメートルの、宍道湖岸に突き出した丘陵先端に地取りしており、金山要害山城の支城であるとともに、宍道氏にとっての海城的な機能を果たしていたと推定される。
主郭の背後の鞍部には堀切が掘られておらず、本城への撤退路を残している。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
宍道要害山城
『雲陽誌』は、永禄年間に毛利元就によって攻められ て落城したとし、城主として宍道五郎左衛門の名をあげている。
宍道氏には惣領家である「八郎」家の他にも六郎・九郎などを名乗る庶子家があったが、五郎左衛門 については信頼できる史料で確認できない。
もともと宍道氏は京極氏の一族で、尼子氏が戦国大名 に成長をとげた十五世紀末以降も、尼子氏と肩をならべ る地位を保持し続けた。
しかし尼子氏がさらに権力を強 化させるにしたがい、その配下の地位に安住できなくな ったようである。
天文十二年(一五四三)に大内義隆が富田城を攻める と、惣領家は尼子氏にそむいて大内方に従った。
大内義 隆がこの出雲侵攻戦に大敗すると、宍道隆慶はそのまま 大内勢とともに出雲国から退去してしまう。
ただし庶子 家は尼子氏の家臣として引き続き当地域にとどまってい た。
隆慶は大内氏の滅亡の後は毛利元就に従い、永禄五年(一五六二)に雲芸攻防戦(一五六二〜六六)の先陣をきって出雲国へ復帰し、旧領を回復した。
このように当地域は宍道氏の支配が続いたといってよいが、惣領家と庶子家が独自の歩みをたどるし、宍道郷 内の分割支配の実態も不明である。したがって宍道要害山城の築城者もその時期も明らかではない。
『出雲の山城』より引用。
城の歴史
永禄年間(1558~70):毛利元就によって攻められ て落城したとし、城主として宍道五郎左衛門の名をあげている。
惣領家は「八郎」と名乗っているので、惣領家ではないことは確か。
惣領家が大内氏に寝返った時(1543)に庶流として、尼子氏に付き従った家なのかもしれなし。
永禄5年(1562):宍道隆慶が尼子征伐時に先陣を切って出雲国に復帰した時に宍道五郎左衛門が守っていた宍道要害山城を攻めた可能性もある。
この時に落城していると思われる。
城主家系図
宍道五郎左衛門の家系は不明。
尼子から大内に寝返った宍道家の家系図。
最終的には宍道隆慶がこの地域に復帰しているので城主も変わったが廃城になったものと考えられる。
城主石高
1591年頃の所領。
宍道五郎兵衛(政慶)
6174.837石 長門 阿武
所感
●宍道氏はここより南に数キロ行った金山要害山城を居城としていたが、この宍道要害山城は海城(宍道湖なので湖城です)の性格を有していたものと考えられる。
●宍道氏は当時この地域では尼子氏と並んで大きな勢力を持っていた。
●城の遺構は長い尾根上に郭を配してそれの回りに大小の帯郭を配ている城の形態。
●本丸には古墳時代の墳墓もあり太古の昔からこの地が見晴らしのよい、立地的にも良好な場所であったのだろう
関連URL
一族である宍道隆慶氏の居城。
永禄年間に毛利の尼子征伐軍に参加して返り咲いた以降の城。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2021/12/26