城データ
城名:玉造要害山城
別名:湯ノ城、玉造城、湯ヶ城
標高:86m
比高:35m
築城年:元弘2年(1332年)頃に湯荘留守職の諏訪部扶重によって築かれたと伝わる。
城主:諏訪部氏、湯氏。
場所:島根県松江市玉湯町玉造字宮の上
北緯:東経:35.412799/133.013170
攻城記
玉造湯神社の背後に城跡がある。
玉造要害山城
中世の山城、湯ノ城とも言う、標高108mの半独立丘陵で、山頂および山腹に削平地が数段にわたって残り、土塁、空堀、井戸跡なども見られる。
小規模だが保存は良好である。
この城は元弘2年(1332)頃、湯庄留守職諏訪部扶重が最初に築いたと言われ、同世紀の中頃、出雲国守護代佐々木伊代守秀貞がさらに改修、増築したとされている。
その後は、湯庄支配の本拠地として、湯氏代々が居所したと思われるが詳細は不明である。天文11年(1542)には湯佐渡守家綱の名が記録に見え、その墓とされる祠が城域内に残っている。
昭和57年1月 玉湯町教育委員会
登城開始。
入り口も示されており分かりやすい。
三ノ平。
一番広い曲輪。
ニノ平。
竹で見通しは悪い。
一ノ平。
土塁跡。
土塁からみた本丸。
井戸跡も残っている。
周辺部。
空堀跡。
空堀から本丸を見上げる。
空堀の向こうには湯佐渡守家綱の墓がある。
ニノ平付近の石積み。
河原石もある。
石列になっている。
土塁のような感じ。
玉造温泉街。
余湖図【玉造要害山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
玉造温泉街を見下ろす丘陵頂部に所在する。
主郭は最高所と考えられ、尾根筋に対して櫓台と土塁を築いて防御を固めている。
主郭の南側に続く郭には井戸が確認され、尾根筋に対しては櫓台の南側に接して土塁を築いている。
さらに主郭の西側を取り巻いている郭の南端にも尾根筋に対して土塁が築かれており、主郭の櫓台を核とした土塁による防御ラインの存在が読みとれる。
また、主郭南側に築かれている堀切は本来存在した堀切の主郭側壁面に新たに築かれたものである。
尾根筋に対する櫓台と土塁による防御ラインの設立と同時期に築かれたものと考えられる。
土塁を食い達わせた虎日の存在等から考えると毛利軍による改修強化も考えられる。
城郭の北側に連続竪堀群が確認できるが、尾根筋の方面には確認できなかった。
湯氏の居城として知られる。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
玉造要害山城
出雲守護佐々木泰清の第七子頼清が湯荘に入って、湯氏を称し、拝志・湯の二郷を頼清一門が領していた。
そして南北朝時代になると湯荘には、頼清の同母兄富田義泰の孫伊予守秀貞が入った。
この城は、富士名義綱が後醍醐帝について隠岐にあるとき、湯荘留守職諏訪部扶重が謀叛を企てたさいに築かれた城で、この騒乱に焼失したといわれる。
しかし秀貞は焼失後、城の規模を改め、 補強再築したのである。
支城である高支城と相対する搦手の谷間には、軍用水道の跡が今も残り、城道の形跡も認められる。
城道を登ると四ノ平跡に出る。ここは三つの削平地が 隣接している。
一つは長さ三六m余、幅四m。もう一つは長さ三〇m、幅一〇 m弱。さらにもう一つは長さ三二m、幅七mからなる。
ここから急坂の屈折路 を登ると三ノ平の御麼畑の平に出る。幅は一七m弱の広さである。
さらに登る と二ノ平に達する。ここは長さ三七m、幅八mほどの広さで、北部一帯の崖岸は人工的に削られた跡が認められる。
さらに東西二三m余×南北三二m弱の一 ノ平を経て、楕円形の地相をなした本丸に出る。
本丸は東西六・五m×南北三二・五m半の広さで、東方搦手の急峻な山勢に接している。
十四世紀末以後の湯氏の消息は不明であるが、秀貞以後、湯氏を称するのは 三流十一系がある。
このうち、尼子家重臣として残る湯氏とは別に、永禄元年 (一五五八)の玉作湯神社棟札に地頭代湯菊丸の名がみえ、その父と思われる天文二十年(一五五一)に没した湯家綱の家系が当城に拠っていたと思われる。
城の歴史
鎌倉時代:佐々木泰清の七子である頼清が湯荘に入り、湯氏を称した。
南北朝時代:湯頼清の孫である湯秀貞が、城を築いたと言われる。
富士名義綱が南朝として隠岐にいた時に、湯荘の留守職であった諏訪部扶重が謀反を起こし城を攻めて落城する。
天文20年(1551):湯菊丸の父と思われる湯家綱が亡くなる。
永禄元年(1558):湯菊丸が玉造神社の棟札に地頭代として名前が残る。
城主家系図
築城初期の家系図。
戦国時代まで続いていたが詳しい家系は不明。
城主石高
1591年頃の石高に湯佐渡守が記載されている。
湯佐渡守 1200.692石 長門 美祢
1551年に湯佐渡守家綱が亡くなっているが、この家の官途名が佐渡守であれば、湯菊丸が成人した後の人物に該当するかもしれない。
所感
●城の遺構はしっかりと残っており見応えはある。
●島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』の郭図を参考に見たがよくわからない曲輪もあった。
●城の中に湯佐渡守の墓があったが、墓に何故あるのか不明、後世戦国時代が終わってからの建立か。
関連URL
諏訪部扶重の後世の子孫である三刀屋氏の城。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2021/12/26