城データ
城名:荒隈城(あらわいじょう)
別名:洗合城、洗骸城
標高:53m
比高:50m
築城年:永録5年(1562)毛利元就によって築かれたと伝わる。
城主:毛利氏
場所:島根県松江市国屋町
北緯:東経:35.467888/133.035593
攻城記
洗合城跡(あらわいじょうあと)
天倫寺に向かう。
天倫寺本堂、ここは城域の東端であった。
削平地があったのかもしれない。
眼下には宍道湖が広がる。
松江城まではすぐ側である。
松江城(当時はこの場所に尼子方の末次城があった)
位置関係
余湖図【荒隈城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
雲芸攻防戦において毛利元就は、宍道湖北岸を東進して鳶ケ巣城から当城へ拠点を移して富田城包囲軍の指揮をとった。
つまり当城は山陰に展開した毛利全軍の指揮中枢であり、将兵の慰安施設や、白潟・末次の港湾・流通機能をも取り込んだ兵姑基地でもあった。
ただ、東西約1.5キロ、南北約3.5キロに及ぶ、樹枝状の浅い谷を取り込んだ縁辺のなだらかな丘陵の、高所を選んで武将級の陣屋が逐次建てられたらしく、縄張りには求心性を欠いている。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
荒限城跡 魄松江市国屋町.南平台
宍道湖北岸に所在した戦国末期の山城。
「懐橘談」など に荒隈と記され、洗骸城・洗合城とも書く。
永禄六年(一五六三)毛利元就は尼子氏討滅のための前線基地として洗 合山にこの陣城を築いた。
標高五〇メートル前後の複数の尾根上に郭がつくられている。
東端は国屋町の天倫寺あたり、南は急斜面で湖岸に迫り、東西約一キロ、幅五 〇〇メートルの広大な城地を有する。
西半部については、 昭和四二年(一九六七)の県文化財愛護協会による発掘調査 によって尾根頂部四ヵ所で掘立柱建物跡が検出され、簡単な陣小屋の存在したことがわかった。
中央部について は、同四五年松江市教育委員会による発掘調査によって 斜面裾部で柵列と思われる柱穴、斜面では四-八段の階 段状の戦、尾根では地山を切崩した高さ三・七メートル、 幅一〇メートルの土塁が確認された。
出土品は明代の青破片・染付破器片や土師器の灯明皿、煙管・天秤·鍋 銭・砥石,現・鉄釘などがあり、松江市教育委員会が保管。
以上の結果から山上にしかなく、将兵らの居住地は山潮一帯の平地に存在した と推定されている。
規憶の大ききに較べて山城としての施数が賛弱な理由は、ここが直接の戦闘の場ではなく、後方の作戦本郎、 物資補給のための兵站基地としての機能を中心としてい たことによるのであろう。
しかし戦略上もきわめて重要 な位置を占めていたことは、永禄五年一二月と推定さ る毛利元就書状(閥閲録)に「愛元陣取之屋は、あらはひ崎え可陣散候、是は白鹿へは程達、水うみのきわにて候、 さ候開わくら山を同日取候而一域相構、富田と鴨橋之間 を取切候はては不叶事にて候」「先あらはひ崎と、わくら 山を取模て、其上にて白鹿表之達、みなく能々見及帳 て可申談との儀辻まてにて候」と配きれることからもうかがえる。
慶長五年(一六〇〇)以後の楢崎氏合戦覚(同書)には「洗載御陣所」とみえる。
『島根県の地名より引用』
城の歴史
永禄5年(1562):この頃兼重元宣宛てに元就書状が届く。
『萩藩閥閲録』巻52兼重五郎兵衛-2
永禄6年(1563):白鹿城が陥落して尼子氏の居城である富田城を攻略するようになると、後方基地として活躍するようになる。
永禄9年(1566):尼子氏がが降り、その役目を終えて廃城になる。
所感
●月山富田城を攻めるために3万にのぼる兵で出雲へ侵攻その時に兵站基地として築城された城。
●現在は団地化して遺構はほぼ無い。
●天倫寺には平削地もあり当時の郭が寺になったのかもしれない。
●ここから末次城はすぐ近く(ただし末次城の場所はは松江城になった)で北へ上がれば数キロで白鹿城へ到着できる。
関連URL
尼子攻略時にも使用された満願寺城。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2021/12/25