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城データ

城名:岩倉城

別名:小鴨城

標高:247m

比高:154m

築城年:寿永・元暦年間(1182~85)

城主:小鴨氏

場所:鳥取県倉吉市岩倉

北緯:東経:35.384407/133.810569

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※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

麓の看板。

 

小鴨氏と岩倉城

小鴨氏は、律令時代-奈良・平安時代-すでに名があり、伯耆国庁につとめた在庁官人の家柄と考えられている。

 

平安時代の末期に、寿永元年(1182)小鴨基保(もとやす)が西伯耆の豪族紀成盛と戦った記録がある。

鎌倉時代に、小鴨氏は岩倉山(海抜247m)の山上に砦を築き、ここを代々の居城とした。

元弘3年(1333)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略されたという記事もあるが、よくわからない。

天皇が京都へ還幸になるとき、小鴨氏基は供奉したといわれる。

 

応仁の乱(1467~77)には、伯耆守護山名教之に従い、小鴨安芸守之基(ゆきもと)は、主人に代わって防戦し、船岡山の戦いで討死した。

大永4年(1524)5月、尼子経久が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の憂き目にあった。

永禄4年(1561)西国より起こった毛利氏が強くなり、羽衣石城の南条氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻。永禄9年(1566)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南條氏と共に吉川元春の配下となった。

 

元亀元年(1570)、山中鹿助の配下に一時奪われたが、因幡の湯原氏の応援を得て奪還した。

天正7年(1579)、小鴨元清は南条元続(もとつぐ)と共に毛利氏から離れ、織田氏に帰属することになった。

 

毛利氏は吉川元長を長として、圧倒的な軍勢を以て、岩倉城に猛烈な攻撃をしかけてきた。

 

天正10年(1582)5月のことである。忠勇十二勇士の誓願盟約による奮戦も空しく、遂に落城した。

 

城主小鴨元清は、南条氏を頼って羽衣石に逃れ、ここに岩倉城の歴史は幕を閉じた。
 

小鴨地区総合開発協議会

 

 

岩倉山全景。

進んでいく。

往時の雰囲気がある。

当時何かの門があったりするのかもしれない。

 

登城路は急でなく歩きやすい。

山頂付近に到着、さっそく石垣があり興奮。

 

二の丸。

広さは十分ある。

ここで籠城したこともある。

眺望が良く、遠くまで見通せる。

前方の山にも城があったのであろうか。

二の丸散策。

 

本丸に向かう。

本丸。

尾根筋のような感じ。

その先に広大な曲輪があった。

ここが本丸だと思われる。

礎石っぽいものもあり。

夕日が落ちる前の岩倉城もいい。

周辺部。

しっかりと石垣も残っている。

 

 

永昌寺(小鴨氏菩提寺)

十三重塔。

小鴨氏に縁のあるものだと考えられる。

 

 

戦国以前の宝篋印塔や五輪塔がある。

 

小鴨神社

 

余湖図【岩倉城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

倉吉市の南部に位置する。天神川の支流、岩倉川東岸に位置する。

 

郭群は大きく三群にわかれる。

 

山頂部の主郭を中心とした郭群は北、東、西側に腰郭を設ける。

 

主郭と三段目に築かれた郭は他の郭と比較して、やや大きい。

 

三段目の郭の中央に土塁が築かれる。主郭部分は郭を密集させた形となっている。

 

また、東側、西側に伸びる尾根筋上に堀切が設けられる。

 

主郭部からやや下がった標高120mの位置にはなだらかに傾斜した尾根筋と尾根に挟まれた浅い谷部に郭群が築かれる。

 

西側の斜面部には区画施設として土塁が確認されるが、東側の区画施設は明瞭でなく、尾根と谷からなる地形を利用して、小規模な郭が築かれる。

 

北側の谷を隔てた丘陵には頂部と、尾根筋上に郭が配される。

 

城主は小鴨氏とされる。

 

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。

 

岩倉城

岩倉城は、倉吉市街から小鴨川右岸に沿ってさかのぼること四㎞ほどの大宮から、その支流岩倉川をさらに南に約一畑の谷間にせり出している標高一二〇 mの孤立した峻離にあった。

 

小鴨氏累代の居城で、中祖小鴨左衛門尉元兼がここに城を築き、寿永・元暦 の頃よりこの地方一帯を支配した。

 

小鴨入道の時、元弘の変に際しては名和長年に味方して船上山に馳せ参じたが、足利氏の天下になると一時本領を失った。

 

しかし、まもなく当城を回復し、その子新三郎元近以降、小二郎良俊・掃部介良幸と代々この城にあって伯耆山名氏魔下の部将として威を振るった。

 

大永四年(一五二四)のいわゆる「大永の五月崩れ」によって、城主掃部介良幸は尼子氏に城を奪われて流浪の身となったが、尼子氏滅亡ののち毛利当城を回復した。

 

しかし、良幸に男子がなかったので、羽衣石城主南条豊後守宗勝の第二子左衛門尉元清を養子として家を継がせた。

 

ついで永禄十二年(一五六九)六月、尼子勝久が兵六千をもって伯耆に侵入し て諸城を攻略し、岩倉城をも攻撃してきた。

 

三日三晩の尼子氏の猛攻にあってついに城は落ちたが、この時、元清は毛利氏の軍役で下関勝山に陣を布いており、急報に接した元清は急いで帰国し、尼子氏を急襲して城を奪還した。

 

その後、南条勘兵衛元続が毛利氏に背いて豊臣勢に味方した時、元清もこれに同調した。

 

天正七年(一五七九)七月、吉川元春が羽衣石城を一時攻略し、今倉に向城を築いて岩倉城に猛攻を加えてきた。

 

元清は元春の鋭鋒を支え、これを撃退した が、同十年五月、吉川元長の大軍を擁しての猛攻にあって二十五日ついに落城、 元清は羽衣石城に逃れた。

 

しかし六月に入ると毛利・豊臣両氏の和議が成立したので、元長は東伯耆三郡を南条氏に渡して陣を引いた。

 

のち、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦で西軍に属したため、羽衣石城の南条氏は滅び、小鴨元清も流浪の身となり、美作国大町村の宿所で土賊に襲われ て哀れな最期を遂げた。

 

現在、石垣・郭などの遺構が往昔をしのばせている。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

城の歴史

寿永・元暦年間(1182~85):小鴨氏が平氏与力として名前が登場する。

 

治承元年(1177):小鴨基保が「ツホカミ山」(現在の淀江町壺瓶山)で原田家平を討ち取っている。

 

元弘3年(1333):名和長年らが、守護代糟屋氏の館を攻め落とし、ついで、小鴨治部少輔元之を下す。

 

嘉吉元年(1441):嘉吉の乱の時に伯耆守護山名教之の被官として、赤松満祐の城を攻めて自刃じ追い込む。

 

大永4年(1524):尼子経久の伯耆国侵攻(五月崩れ)により小鴨掃部助が伯耆国を逃れる。

 

永禄3年(1560):尼子晴久死去により、伯耆国の国人たちが毛利方に転じたり、自立をしたりする、この頃小鴨氏も旧領に復したか。

 

永禄12年(1569):毛利方についてしたが、備前赤松家の浪人により城を攻め取られる、しかし、急遽派遣された毛利方の山田出雲守が城を奪還する。

 

 

永禄13年(1570):この頃南条氏との関係強化をはかり、その支配下となる。

 

天正3年(1575):小鴨元清が吉川氏に忠誠を誓いまた、父南条宗勝の急死により兄南条元続への家督相続承認を依頼している。

 

天正7年(1579):兄南条元続が毛利に叛いて織田に通じると小鴨元清も同調する。

 

天正8年(1580):吉川氏が岩倉城を攻める。

 

天正10年(1582):本能寺の変後の動揺で南条氏の居城である羽衣石城が落城、岩倉城も城兵が退散して落城、小鴨元清も因幡に逃げる。

しかし、豊臣秀吉のとりなしで旧領を回復する。

 

天正15年(1587):豊臣秀吉の九州征伐に従軍。

 

文禄慶長の役(1592~98):小鴨元清は南条元忠の代理として兵1500人を率いて参陣する。

 

慶長5年(1600):関ケ原の戦いにて西軍に属して、改易される。

 

 

城主家系図

所感

●小鴨氏の歴史は長く、平安時代まで遡れるが、在庁官人としての性格を有しており、当初から力があった。

 

●紆余曲折があるものの、戦国時代まで在庁官人から国衆として生き残っているのは珍しい。

 

●城は遺構がよく残っており、また整備も行き届いており見ごたえがある。

 

関連URL

【鳥取県】羽衣石城【東伯郡湯梨浜町大字羽衣石 】

兄である南条元続の居城。

 

 

参考URL

岩倉城(ウッキペディア)

城郭放浪記(伯耆岩倉城)

西国の山城(岩倉城)

岩倉城 / 岩倉山城 – しろ凸たん

 

参考文献

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』

『日本城郭大系』14

『鳥取県の地名』

『鳥取県地名大辞典』

公開日2021/12/18

 

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