城データ
城名:打吹城
別名:倉吉城
標高:204m
比高:190m
築城年:延文年間(1356~61)
城主:山名氏
場所:鳥取県倉吉市打吹山
北緯:東経:35.426451/133.822030
攻城記
鎮霊神社のほうから進んでいく。
小さな削平地が多くある。
備前丸と呼ばれる曲輪。
南条備前守(南条元信)がここに屋敷を構えたことから由来する。
木々の隙間から眼下を臨む。
更に進んでいく。
櫓台か。
山頂の石碑。
山頂からの眺望は良くない。
降りていく方向が違うらしい。
途中の石垣。
降りていく。
打吹城全景。
倉吉街並み
大岳院(里見忠義墓所)
余湖図【打吹城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
街地の南側に位置する打吹山に築かれており、山頂部の主郭を中心とし郭群と東側に位置する郭群に分かれる。
頂上部の主郭は帯郭に囲まれ、東、北側には複数の郭が築かれる。
北側の郭群のそばには敵状竪堀が認められる。
主郭には天主台と想定される高台があり、周囲には部分的に石垣状の遺構がある。
主郭の西側に位置する郭群は、尾根筋上に郭を構築し、随所に堀切、竪堀が認められる。
北西に伸びる尾根筋上にやや大きめの郭が数段築かれるが、そこから派生する丘陵に郭状の痕跡が認められ、部分的に区画施設としての堀切がある。
また、東側に展開する郭群は小規模な郭や、郭状の平坦地で構成されている。
城主は山名氏から南条氏へとつながり、北側の山麓が南条氏の館跡と推定されている。
城の構築は山名時代に山頂部周辺、戦国期に西側の郭群、近世初頭に主郭と北側北麓部分が整えられた。(吉田浅雄、1988) と考えられている。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。
打吹城跡 倉吉市仲ノ町など
打吹山の山頂部を中心として築かれた山城。西から北にかけて小鴨川、東に竹田川(天神川)を眼下に望む。
宇津吹城・宇津葺城とも記す。倉吉城ともいわれるが(伯耆民談記・池田家履歴略記)、これは近世に入っての呼称とされる。
(南北朝・室町期)
南北朝期中頃から戦国期にかけての伯耆国守護山名氏の居城で、守護所であったともいう。
建武四年(一三三七)には山名時氏が伯耆守護となっており、小鴨川北岸の田内城を居城とした。
「伯耆民談記」に よると、時氏の嫡子左衛門佐師義が当城を築いて居城としたという。
築城年代は延文年間(一三五六~六一)と伝える。
現在国府に伯耆国庁跡があるが、田内・打吹両城ともにこれに近接しており、守護が拠点を置くにふさわしい立地条件を備えていたと考えられる。
応安四年(一三七二)の時氏の死去に伴って師義は伯耆守護職を継承し、時義-氏之へと相伝された。
その後、守護職は同族の山名満幸の手に移るが、明徳の乱で満幸が敗れ、明徳三年(一 三九二)に氏之に還補された。
「伯耆民談記」は乱後の状況 を、伯耆国は「右馬頭氏之に賜り、元の如く倉吉に在城 して一国を管領せり」と記す。
守護山名氏は岩倉城の小鴨氏や羽衣石城(現東郷町)の南条氏などの有力国人を被官化することで領国支配の確立を図ったが、彼らの自立的 な勢力を完全に掌握することはできなかった。
応仁の乱で山名氏一門は室町幕府内での勢力を衰微させるが、伯耆では文明一二年(一四八〇)から翌年にかけて守護山名政之と一族の元之が守護職を争うという同族内の内証が起こり、法勝寺城(現西伯町)などで合戦があった。
(戦国期以降)
出雲国守護代の地位を基礎として台頭し た尼子氏は、伯耆への進出を図っていた。
永正年間(一五 〇四~二一)山名澄之は尼子経久と結ぶことによって動乱の収拾および守護権の安定を図ったらしいが、実質的に は伯耆の一勢力にすぎなくなっていた(「鳥取県史」など)。
山名澄之と尼子経久の関係については不明な部分が多いが、大永四年(一五二四)経久は伯耆に進攻して当城の澄之 ら伯耆の諸家を攻め、これを没落させたという。
世にいう大永の五月崩れである(伯耆民談記)。
城を追われた山名氏豊(澄之の子か)は毛利氏を頼り、永禄(一五五八~七〇)末 年に当地に帰住したが、城を復興する余力もなく、羽衣石城の南条元続の麾下に属し、打吹山の山麓に殿舎を修 造したという(同書)。
天正七年(一五七九)南条元続が織田信長についただめ毛 利方の吉川元春・元長軍による攻撃が開始された。
「陰徳 太平記」巻六一(伯州羽衣石山向城附宇津吹城合戦之事)には同 年一二月の当城をめぐる攻防戦について記されるが、こ の合戦は吉川方が在番する当城を南条元続が攻めたものであった。
同八年一二月八日には吉川方の肥塚与四郎に 宇津吹在番」が命じられており(桂左春房他二名連署書 肥塚家文書)、その恩賞として二〇石の地の宛行が約束さ れていることから「吉川元春書状」同文書)、当城の重要性 がうかがわれる。
南条方についた氏豊は同年の合戦で敗走する際、鳴滝(現青谷町)の山中で盗賊の手にかかって討死したとされる。
氏豊の討死後、吉川元春が当城を再興、 岩倉城の小鴨氏に対する押えとした(以上「伯耆民談記」など)。
年未詳六月一九日の渡辺長覚書(閥閱録)には「伯州 (うつふさ城被仰付候時、南条被官頭湯木討捕、(中略)元 春公御感状有之」とある。
天正一〇年毛利氏と羽柴秀吉の和睦が成り、同一三年に秀吉は南条元続に河村・久米・八橋三郡を預けたため、当城は南条氏の支配すると ころとなり、同氏は親族・家臣を城代として配した「伯 耆民談記」「鳥取県史」など)。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦後、中村忠一(一忠) に伯耆一七万五千石が与えられ、翌年米子城に入部。
同九年に一族の中村伊豆守栄忠が八橋城(現東伯町)から当城に移り、一万三千石を領した。
同一四年中村忠一家の断絶によって河村・久米両郡は幕府直轄領となり、伯耆代官山田五郎兵衛直時が当地に来住。
元和元年(一六一五)の 一国一城令により廃城になったという。
(城の規模と遺構)
「伯耆民談記」によると、城は北を正 面とし、本丸は東西三七間・南北一七間、北東隅に東西 六間・南北四間の天守があった。
二の丸は備前丸ともい われ、南条元続の叔父備前守元信が居住したことにちなむという。
本丸から西へ二〇間の地にあり、東西一九 間・南北一四間。三の丸は越中丸ともいわれ、元続の重臣山田越中守が城代として居住したことにちなむとされる。
二の丸から西へ四三間下り、東西三〇間・南北一三 間。本丸から北へ一二間下った小鴨丸は東西二五間・南 北一三間。天正一〇年の岩倉城落城後、南条氏の客分で元続の子元忠の後見役となった小鴨元清が居住したのが その名の由来とされる。
本丸の北七〇間の麓には東西三 一間・南北二二間の南条屋敷があった。
なお寛延(一七四八~五一)頃の倉吉絵図(県立博物館蔵)では、倉吉陣屋南背後の主峰に本丸、陣屋西側の勝入寺の南背後の峰に備前丸、同寺とその西方の満正寺の間の峰に越中丸と記され る。
現在の遺構は大きく山頂部・西側中腹部・北側山麓部 に分れる。
山頂部は主郭を中心に東側に二段、北側に三段の郭を配置する。
主郭は東西七〇メートル・南北三五 メートル、北東隅に一五メ一〇メートル、高さ二メート ルの天主台を置く。
主郭の西側には瓦が散布し、東側に礎石が数個残るが、具体的な建物配置を復元するには至 っていない。
主郭の西側から南側にかけて腰郭が設けら れ、南側の腰郭には木戸が設けられていた。
主郭正面に あたる北側には石垣が築かれ、虎口は南側にあった。西側の備前丸は単郭で、これを要として幾つかの尾根に中丸をはじめとする郭が数段設けられている。
北側山麓部は打吹公園として整備されているが、往時の郭跡は南条屋敷跡とされる鎮霊神社境内の周辺に面影を残す。
城跡の縄張りには守護山名氏時代・戦国期・近世初頭の三時期の変遷がみられ、山名氏時代に山頂部周辺、戦国期 に西側の郭群、近世初頭に山麓部分の郭が整えられたと思われる。
このうち第三期には城下町を想定した近世城郭としての整備が図られたと推定される。
『鳥取県の地名』より引用。
城の歴史
延文年間(1356~61):この頃居城である田内城から山名師義が移ってきたという。
応安四年(1372):山名時氏の死去に伴って師義は伯耆守護職を継承し、その後、城も時義-氏之へと継承される。
文明12年(1480):この頃一族の山名政之と一族の元之が守護職を争うという同族内の内証が起こり、弱体化していく。
永正年間(1504~21):この頃山名澄之は、尼子経久を結び守護の権力強化を図ろうとした。
大永4年(1524):尼子経久が伯耆に侵攻し山名澄之もこの混乱で逃亡、毛利を頼る。
永禄年間(1558~70):この頃には尼子から毛利に勢力の変更が行われており、山名澄之も帰住するが、往時のような権力基盤は持たなかったため、南条元続の麾下に属す、城も南条氏のものとなる。
城主は南条元続の伯父にあたる元信が管理していた。
天正7年(1579):南条元続が織田信長についたため、毛利方の吉川元春により攻撃される。
天正10年(1582):毛利氏と豊臣秀吉の和睦がなり、この城も南条氏の支配下におかれる。
慶長5年(1600):関ケ原の戦い以降に中村氏の所領となる。
慶長9年(1604):中村氏の一族である中村伊豆守栄忠が八橋城から当城に移る。
慶長14年(1609):中村氏の断絶により、幕府直轄領となる。
元和元年(161):一国一城令により廃城となる。
城主家系図
山名氏から南条氏に城主が変わった時に元続の伯父と弟の名前から曲輪名が出来たのは興味深い。
城主石高
中村一忠時代:17.5万石
中村伊豆守栄忠時代:1.3万石
所感
●城としては伯耆国の守護の居城に当たるが、当時の遺構はそこまで大きくなく、山頂部周辺だけだったと思われる。
●その後戦国時代に大きく拡張されていき、南条氏が支配している時代に大きく改修されたものと思われる。
●曲輪の数は多く、対毛利戦を備えた改修だと思われる。
関連URL
元の居城。
南条氏の本拠の城。
参考URL
【伯耆】 打吹城|伯耆古城図録|しろ凸たん ~伯耆国古城 …
参考文献
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
公開日2021/12/12