城データ
城名:橋本城
別名:無し
標高:80m
比高:60m
築城年:永禄年間(1558~70)頃か
城主:橋本将監(山名家臣)、広岡甲斐守国宣(武田家臣)、綾部河内守(毛利家臣)
場所:鳥取県鳥取市橋本
北緯:東経:35.453284/134.225736
攻城記
この辺りから直登しようと思ったが登り口が分からずうろうろする。
墓所辺りからアタックするもやはり分からず。
ただし、古い五輪塔もあり、ここに有力な土豪がいたことが分かる。
余湖図【橋本城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
概要
西側に智頭往来・千代川を見下ろす丘陵頂部に数カ所の郭が点在する。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。
橋本城
猪子山の城主別所弾正と共に近くの武田方の城を攻めたが、武田氏の勢力は日々強大となり、ついに武田氏の軍門に降り橋本城も落城した。
その後、武田氏家臣広岡甲斐守国宣が橋本城主になったが、天正四年(一五七六)、武田高信が散岐の大義寺で山名豊国に誅せられたので、広岡甲斐守も城を去って流浪したといわれる。
ついで、毛利氏の勢力がこの地方にも及ぶに至り、毛利氏の部将綾部河内守が在城したが、ほどなく羽柴(豊臣)秀吉の攻撃に会って落城した。
山頂には長さ三六mほどの平地が二か所と、長さ一八m×横五・四mくらい の平地など多くの平地があり、北を大手としている。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
永禄6年(1564):この頃に勢力拡大していた武田高信を反抗するも、逆に破れ降伏する。城主が広岡甲斐守国宣となる。
天正4年(1576):武田高信が山名豊国に誅せられ家臣であったが広岡甲斐守国宣も城を去る。毛利氏が勢力を伸ばして綾部河内守が在城する。
天正9年(1581):この頃豊臣秀吉が鳥取城を攻めるにあたり、橋本城も落城したと思われる。その後廃城となる。
所感
●橋本将監とあるが、山名氏にはほかにも吉岡将監(防己尾城)、徳吉将監(徳吉城)と将監が3人いる。
●猪子山城の別所氏と武田高信に戦いを挑むも多勢に無勢で負けるが、勝てると思ったのか。
●曲輪にたどり着けなかったのが残念。
関連URL
一緒に戦った別所弾正の居城。
徳吉将監の居城。
吉岡将監の居城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
公開日2021/12/05