城データ
城名:長浜城
別名:今浜城
標高:91m
比高:1m
築城年:天正元年(1570)
城主:羽柴秀吉、柴田氏、山内氏、内藤氏
場所:滋賀県長浜市公園町
北緯:東経:35.377627/136.261228
攻城記
琵琶湖の中に井戸がある。
遺構はほぼない。
模擬天守。
模擬石垣。
天守閣跡。
豊臣秀吉像。
現在は公園化されており遺構が残っていない。
長浜城の構造
この石碑が建つ位置は、長浜城の天守閣があったといわれる所です。その天守台の大きさは、江戸時代の絵図によれば、東西12間×南北10間とあります。
長浜城は、天正2年(1574)から翌年にかけて、羽柴(豊臣)秀吉公が築いた城です。その後、一豊公など4人の城主が入りましたが、元和元年(1615)には廃城となっています。
このように、長浜城の歴史は約40年に過ぎず、江戸時代の大半は城がなかったので、その構造(専門的には「縄張」といいます)は現状から推定することはできません。
古絵図などを基にした長浜城の復元によれば、上図のように2重の外堀と内堀に囲まれた水城で、南北約1.2キロ・東西約0.7キロの大きであったと考えられます。
さらに、今回の「秀吉ゆかりの石碑・石柱建立事業」では、左図に示したような石碑・石柱を豊公園に建立し、城があった頃の状況が分かるようにしました。
余湖図【長浜城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
長浜城跡 長浜市公園町・港町など
湖岸にある豊公園が本丸跡地とされ、その南と東に広がる。
もとは今浜城とよばれた。文亀元年(一五〇一)六月 一七日、京極材宗はかねてから対立していた京極高清を今浜城に攻めるが失敗。
高清はこの前後には老臣上坂氏 の居城今浜城にいたと思われる。
大永三年(一五二三)には、浅井氏・三田村氏らの「牢人衆」は京極高清や上坂家信の籠る今浜城を攻め敗走させている(江北記)。
天正元年(一五七三)浅井氏が滅亡すると、織田信長は浅井氏攻略に最も戦功のあった羽柴秀吉に湖北の地と小谷城(現東浅井郡湖北町)を与えた。
小谷城に入った秀吉は翌 二年頃から今浜に城地を求め築城を開始し、同三年か四 年に今浜城に入城し、地名を長浜と改めた。
築城にあたって坂田郡平力や浅井郡下八木(現東浅井郡びわ町)に宛てて「今はま」へ人夫を徴発する判物が出されている(年未 群六月六日「羽柴秀吉下知状」川合文書など)。
城地選定の最大 の理由は湖上交通の有効利用にあったと思われる。
秀吉は小谷城下や周辺各地から商人を移住させ、町の年貢や 諸役を免除し商業の振興をはかったという。
また寺院も 小谷城下から移している。
天正一〇年まで秀吉が城主で あったが、中国地方での戦闘のため居城期間は短かった と思われる。
同年織田信長没後の清洲会議で当城は柴田勝家に与えられ、勝家の甥勝豊が入城した。
勝家と秀吉 の関係が緊張し、同年一一月勝豊は降伏し、再び秀吉の 支配下となる。
同一一年の賤ヶ岳の戦で柴田勝家を敗死 させるまで、当城は秀吉の戦略・兵站基地となっている。
同一三年から同一八年までは山内一豊が居城した。
その後の城主の変遷は定かでない。慶長一一年(一六〇六)内藤信成が四万石で長浜藩主となる。
信成の移封は大坂城の豊臣氏に備えるためで、城の修築費として白銀五千枚を 与ぇられ、美濃・飛騨・近江三国の役夫を使った大修築工事が行われた。
現在残る遺構はこの修築後のものである。
信成の後はその子信正が継いだが、元和元年(一六一五)信正は摂津に移封となり、長浜藩は廃藩、城は廃城となる。
元禄九年(一六九六)の長浜町絵図(今村家蔵)を中心に、発掘調査の成果をとり入れながら内藤氏時代の城跡 を想定してみる。
現在の米川の川筋を北に延長し、現南 なかだたら 呉服町の北端で西折するものを第一の外堀とし、その内 側にもう一つの外堀を備えており、その間は近世の中鞴町で、延宝三年(一六七五)の長浜古城跡検地帳(淵元文書)では鍛治部屋と記され、武具製作にあたる鍛冶が住んだと思われる。
内側の外堀の内部は家中屋敷や諸役所がおかれたと思われ、前出検地帳では「伊右衛門屋敷」「守田屋敷」の地名がみえる。
その内側に広い内堀があり、本丸 の北部に天守が建ち、その南に藩主の御殿があった。
天守の北に御用船囲場所があり、天守西下の船着場とつながる可能性がある。
船着場東には米蔵地があり、舟運の 利用が城建設の大きな目的であったことをうかがわせる。
湖岸に沿って高石垣が築かれていたと思われるが、その 遺構は少ない。
廃城後長浜城の建造物・石垣などは彦根 城に移されたと伝えるので、本丸や御殿付近は石垣を含めて徹底した破壊が行われたと思われる。
大通寺の台所 門は当城の大手門を移築したと伝える。
知善院の表門は 当城の搦手門といわれる。
現在のところ、秀吉の時代に までさかのぼれる確実な史料・遺構は発見されていない。
城の歴史
天正元年(1573):羽柴秀吉が築城を開始する。
天正4年(1577):このころ完成する。
天正9年(1581):秀吉が中国遠征で長期不在の為、信長が一時的に堀秀政を長浜城主に任命する。
天正10年(1582):本能寺の変の時に明智氏に加担した阿閉貞征が一時的に長浜城を占領したがすぐに敗戦して羽柴氏の支配下に戻る。
清洲会議にて柴田勝家の支配下になり城主が柴田勝豊になる。
天正11年(1583):1賤ヶ岳の戦いの後に山内一豊が城主となる。
慶長11年(1606):内藤信成が城主となる。
元和元年(1615):大阪夏の陣以後に内藤氏は移封されて、廃城となる。
城主石高
内藤氏時代:4万石。
所感
●現在は秀吉時代の遺構はなく、模擬天守がある。
●太閤井戸が琵琶湖の中にあるが、天正の地震の時に湖底に沈んだのであろうか。
●模擬天守は犬山城や伏見城をモデルにしている。
関連URL
長浜城を信長から頂いたのは小谷城を攻めた功績が評価されたから。
参考URL
参考文献
『滋賀県の地名』
『日本城郭大系』11
公開日2021/11/26