城データ
城名:山中城
標高:570m
比高:40m
築城年:永禄年間(1558~70年)頃に北条氏により築城。
城主:北条氏
場所:静岡県三島市山中新田
北緯:東経:35.156061/138.992028
攻城記
三の丸堀。
田尻の池。
とても綺麗に整備されている。
本丸堀。
障子堀。
本丸跡。
架橋を進む。
天守櫓跡。
本丸方面。
北の丸堀。
北ノ丸跡。
ここにも障子堀がある。
西の丸。
拡大した富士山。
障子堀
open-hinataより【山中城】
余湖図【山中城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
山中城
城の創築について、現在確実な史料はないが、永禄年間に、小田原本城の西方防備のために、箱根の天険を利用して築城されたと考えられる。
この時の規 模や繩張りについては不明である。
後北条氏は、氏康の時、俗に「箱根十城」と称される城砦群を箱根連山の内外に築城配置し、その要になる根城を鷹之巣 と山中二か所に築いたとい う。
山中城の役割としては韮山城・鷹之巣城の「伝えの城」としての要素を持つ 一方、箱根口の関門として 重要な存在であった。
北条氏康は山中城を番城 としていたが、やがて三家老の一人、松田右兵衛大夫康長を城番とし、北条氏勝 (相模玉繩城主)を城主とした。
のち山中城は天正期に 入ると、漸次修築や拡張に よって防備が増強されてい ったことが多くの古文書に よって知ることができる。
天正十八年三月初旬、豊臣軍は伊豆に侵入し、韮山城を包囲した。秀吉軍の 箱根攻めの主将には徳川家康があたり、山中城攻め総大将は豊臣秀次 、これに 中村一氏・田中吉政・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らが従った。
家康が山中城攻めの総大将という説もあるが、家康は山中城北方から鷹之巣城を攻めている(先陣は松平周防守康重。 牧野右馬允康成 ら)。
同年三月 二十八日、秀吉は家康と共に山中城の地形を巡見し、長久保城 に入り、織田信雄に韮山城を攻 めさせている (『家忠日記』 『本願寺文書』)。
山中城の攻城戦は三月二十九 日に行なわれた が、この合戦の 経過については 『北条記』の「山中合戦之事」に 詳しく記されている。
山中城の守将は松田康長 (北条家の老臣 松田憲秀の甥)、 さらに北条氏の 重臣朝倉元春・ 間宮豊前守康俊・同信俊・同信冬・同信重や七家老の一人多米氏の将多米長定・長谷川近秀らが立て籠もった。
松田康長以下 四千の城兵に対して、豊臣軍堀秀政の右翼勢二万、家康の左翼勢三万、豊臣秀 次の大手軍二万、計七万を数え、城方は、一七倍以上の圧倒的な大軍と対峙し 三月二十九日午前十時、秀次の衆の中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らは岱崎砦を猛襲したが、城兵の抵抗が激しく、一柳直末は鉄砲によって討死した。
直末の死にひるまず城中に突進した秀次軍は、多くの城兵を倒し、主将の間宮康俊をはじめとして一族を討ち取った。
岱崎砦を陥落させた中村一氏 は、これを陣所として本城に迫り、攻城軍は三の丸を突破し、二の丸を陥落させ、本丸を残すのみとなった。
守将松田康長は、北条氏勝を城外に送り出すと、 残兵二〇〇人と共に本丸に籠もったが、四方から乱入する攻城軍につぎつぎと 部下を討たれ、ついに康長も壮絶な戦死をとげた。
山中城陥落は、十二時頃だったという。山中城がわずか半日で落ちたことは、秀吉が羽柴新庄侍従(吉川広家)に宛てた書状によってわかる。
「山中城へ今日廿九取掛午刻乗崩 者不及申首千余討取其外追討不知数候」今『吉川家文書』)と記されている。
『家忠日記』には、「山中筋をしこませられ候、山中城中納言殿衆のりくつし候」とあって、簡単に一行で記録されている。
いかに堅城であろうとも、城兵の数が 攻城軍と比較して問題にならないほど寡勢であったため、つぎつぎと人海戦術 で押す上方衆の前には、防戦の限度をこえるものがあったろう。
落城後、家康勢は山中城の跡に陣所を一時置いたという。
近くの支城韮山城を守る北条氏規 は、五〇〇の城兵を指揮し、四万の上方衆と対峙、長期の籠城戦に耐え、六月 十四日ようやく降伏勧告を入れて開城し、本城の小田原城は七月になって降伏、開城した。
『日本城郭大系』9より引用。
城の歴史
永禄年間(1558~70)に北条氏康により築城される。
天正18年(1590):豊臣軍が攻めてきて激しい戦闘の後に落城、その後廃城となる。
所感
●障子堀で有名な城で、復元整備されているが、往時は芝生化されてはいなく、関東ローム層で一度入ったら出てこれないと思われる。
●西の丸からは富士山が綺麗に見える。
●岱崎出丸で大きな戦闘があったので、行くことをお勧めす
関連URL
参考URL
参考文献
『静岡県の地名』
『日本城郭大系』9
公開日2021/11/03