城データ

城名:引間城

別名:引馬城、曳馬城

標高:11m

比高:4m

築城年:詳細不明、永正年間(1504~21)頃か。

主な城主:巨海氏、大河内氏、飯尾氏、徳川氏

場所:静岡県浜松市中区元城町(東照寺内)

北緯:東経:34.713312/137.728491

引間城はここ

 

 

攻城記

引間城本丸跡

鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。現在の馬込川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達しました。「船越」や「早馬」はこの頃の地名です。

 

戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。

 

歴代の城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。

 

この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衛(頭陀寺城城主)がいました。

 

松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。

 

徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。

 

元亀3年12月(1573)武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(元目)口」へ撤退したと言われています。

 

このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。

 

その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。

 

明治19年、旧幕臣・井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を勧請し、境内となっています。

 

平成27年1月 監修:静岡文化芸術大学磯道史教授

 

現在は東照宮の境内となっている。

 

open-hinataより【引間城】

 

 

余湖図【浜松城の中にあり】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

古城が引間城。

 

城の概要

引馬城

引馬城址は、現在、浜松市元城町にある東照宮境内にわずかに城址としての 面影を残すだけであるが、かつては楠や銀杏の大木が茂り、東照宮の境内を中に城塁の遺構も見られた(『浜松の史跡』)。

 

現在は市街地と化し、東照はわずか五〇m四方ほどの広さであるが、東照宮に連なる一帯はやや高台となり、比高約一〇mで、江戸時代に描かれた絵図に「古城」と記されている部分 が引馬城である。

 

築城者・創築年代については諸説があり、どれが正しいかについてにわかに 断定することはできないが、いまそれを整理してみるとつぎのようになる。

 

(1)三善将連(または為連)の命をうけて、久野佐渡守の末子越中守が築いた。 永正年間(一五〇四~二一)。

 

(2)今川貞世(了俊)の孫貞相が敷知・豊田・周智の三郡を領し居城とした。

 

(3)三河国臥蝶の城主大河内備中守貞綱が築いて居城とした。永正年間。

 

(4)巨海新左衛門尉が浜松荘に在地し、城を構えてこれに拠った。

 

久野越中守が築いたとす る(1)の考え方は、すでに 『浜松御在城記』などにも 紹介され、いわば引馬城築 城に関しての定説となってきたものであるが、残念なことに、三善将連(または 為連)にしても、久野佐渡守越中守にしても、浜松の地との関連が明らかにはさ れておらず、にわかにこれが妥当であると論ずるだけの根拠に欠ける。

 

また、②の今川貞相説は、 今川貞相の本拠がむしろ磐 田・袋井のほうであること によって否定されようし、典拠が『応仁武鑑』という俗書であることも、説得力に欠ける。

 

(3)大河内貞綱説は、大河内貞綱が斯波氏の被官として浜松荘におり、今川氏と再三戦っていることによって首肯されるが、史料的な裏付けにやや欠ける。

 

そこで(4)の巨海新左衛門尉ということになるが、連獣師楽壓戦崇長の『宗長記』に、「吉良殿のうち巨海新左衛門尉、此庄を請所にして在庄。よき城をかまへ、狩野と申合、入部違乱す」とあり、「此花」とは浜松荘のことで 百良氏の命をうけた巨海新左衛門尉が引馬城を築いた可能性は大である。

 

なお、引馬城のことが史料上に頻繁に出てくるのは、斯波氏と今川氏の抗争 の時点で、少し詳細に検討してみよう。

 

まず、今川氏親が伊勢新九郎長氏(北条早雲)の助勢を得て遠江に侵攻を開始したのは明応三年(一四九四)からであるが、文亀元年(一五〇一)頃からは直接斯波氏と対戦し、同三年には浜名湖周辺までほぼ制圧するという勢いであった。

 

氏親・早雲の兵はさらに進んで三河まで駒を進めることになるが、肝心の浜松周辺には斯波氏の被官大河内貞網がおり、永正九年(一五一二)には貞網は引馬を占領し、同十三年、貞網が引馬で挙兵している。

 

しかし、この年に氏親は 引馬城の貞綱を滅ぼし、遠江の完全な平定を完成するのである。

 

したがって、 引馬城の城主は巨海新左衛門尉から大河内貞網に代わっていったことが明らかであり、さらに今川氏親の引馬攻めのあとは飯尾賢連が城主となる。

 

なお、史上有名な金掘りを使っての引馬城攻撃はこの時のことで、『宗長手記』には、 「安部山(安倍山)の金掘をして、城中の筒井悉く掘くづし、水一滴もなかりしなし。大河内兄弟父子、巨海・高橋其外権籠傍輩数輩、あるは討死、あるは討捨、あるは生捕、男女落行躰目もあてられずぞ有し」と記されている。

 

こうし て今川氏親は引馬城を落としたのである。

 

その後は、飯尾賢連、さらに乗連、ついで連竜と、今川氏の支城主として飯尾氏がこの地の支配に乗り出すわけであるが、飯尾氏は今川氏に招かれて京都 からきたもので、城代として江馬泰顕・同時成がいた。

 

飯尾氏が引馬城城主と して在城したのは天文以降で、『糀屋記録』に、

今川上総介氏真旗下奉行

高一万石

一、飯尾豊前守乗連同豊前守連竜

右天文弘治永禄/頃マテ三十八年程居

 

とあり、乗連・連竜の二代で三八年間在城ということになり、それ以前の賢連 の代まで入れればかなりの年数で、引馬の発展に果たした飯尾氏一族の影響がいかに大きなものであったかがうかがわれるであろう。

 

ところで、永禄三年(一五六〇)、今川義元が尾張の桶狭間で織田信長の奇襲 によって討死したが、子氏真は弔い合戦をすることもなく、そのため三河の徳 川家康が自立しはじめ、遠江にもその力を伸ばしてきた。

 

遠江の要衝引馬城を守る飯尾連竜は家康に通じて氏真と絶縁したため、怒っ た氏真は永禄六年、引馬城を攻撃した。

 

しかし、この時は成功せず、翌七年、 再び氏真の兵は引馬城を攻撃した。引馬城の支城頭陀寺城が焼失したのは、この合戦によってである。

 

結局、この時は、氏真・連竜の講和という形でおさま ったが、翌八年、連竜は駿府によばれ、そこで暗殺されてしまい、飯尾氏は滅亡した。

 

そのあとを城代の江馬安芸守泰顕と同加賀守時成が守っていたが、永禄十一 年、泰顕と時成の間に内紛が起こり、泰顕が時成を殺し、また泰顕も時成の家臣によって殺されてしまった。

 

江馬泰顕が武田信玄に通じ、そのまま家康に属そうとする時成と対立して殺害したといわれているが、いずれにせよ、飯尾・ 江馬氏の滅亡によって引馬城は政治権力の空白地域と化したわけである。

 

かねてから遠江への侵出をねらっていた家康がこの好機を見逃すはずはなく、 さっそく永禄十一年十二月、重臣酒井忠次を派遣して城を接収し、徳川氏の支城とした。

 

『浜松御在城記』には「此時引間ノ城ニハ、酒井左衛門忠次ヲ被残 置候由、此忠次ヲ三河衆ハ尉殿ト被申」と記されている。

 

翌永禄十二年五月、掛川城に籠もる今川氏真を降伏させ、氏真は北条氏を頼 って伊豆の戸倉に入り、ここに戦国大名としての今川氏は実質上滅亡すること になったが、同時にこのことは、遠江が家康の掌中に入ったことを意味した。

 

そこで家康は、居城が岡崎では三河・遠江二か国を支配する上で西に片寄りすぎていると考え、遠江に居城を築くことになった。

 

初め家康の本城として計画 されたのは見付であった。ここは古代から遠江の国府があった地で、政治上の 中心地であり、かつて遠江の守護今川氏も本拠をおいた所である。

 

見付の城はふつう城之崎城の名で呼ばれているが、繩張りも行なわれ、実際 に土塁なども構築され始めたが、突然中止され、代わって引馬城が本城地として選ばれることになった。

 

『当代記』は、この時の移城の理由として、天竜川の東では、信長の支援を受けるのに不便だとの信長の意見に従ったものとしている。

 

たしかにそのようなことも理由の一つではあろうが、より根底には、城之崎城よりは引馬城のほうが、引馬の市といわれるほどの経済的な中心地をなし ており、より発展性があるものと考えたためであろう。

 

こうして元亀元年(一五七〇)六月、家康は、飯尾氏時代の引馬城に入ったが、 同時に名を浜松と改めた。

 

改めたとはいっても、以前からその付近一帯は浜松荘の名で呼ばれており、城名を荘名にちなんで浜松城としたものである。

 

浜松城はかつての飯尾氏時代の引馬城の西方の高地を中心に築城されたもので、引 馬城もその一郭としてとりこまれた。」

 

城の歴史

年代不明:巨海新左衛門尉が城主となる。

 

永正9年(1512):斯波氏の被官である大河内貞綱が引馬を占領する。

 

永正13年(1516):大河内貞綱が引馬で挙兵するが今川氏親が引馬城の貞綱を滅ぼす、城主が今川氏家臣の飯尾氏になる。

 

永禄3年(1560):桶狭間の戦いで今川義元が討死、その後、飯尾氏が徳川氏に寝返る。

 

永禄6年(1563):今川氏真が引馬城攻める。

 

永禄7年(1564):再度今川氏真が引馬城を攻める。

 

永禄8年(1565):飯尾氏が今川氏真と講和して駿府城に呼ばれるが、そこで暗殺される、城代が江馬安芸守泰顕と同加賀守時成となる。

 

永禄11年(1568):泰顕と時成の間に内紛が起こり、泰顕が時成を殺し、また泰顕も時成の家臣によって殺されてします。

 

永禄11年(1568):11月に徳川家康の家臣である酒井忠次を派遣して城を接収して徳川の城となる。

 

元亀元年(1570):徳川家康が引馬城に入り同時に名を浜松城に改める。

城は順次拡張されていき、引馬城部分は米蔵になる、地図でも古城として記載される。

当時の引馬城。

 

所感

●現在はこんもりとした山であるが、当時は城域も広かったと思われる。

 

●家康がこの地に居城を築城した時にはこの引馬城が居城であったが、すぐさま拡大していき、現在の浜松城になった。

 

●城跡は東照宮が祀られている。

 

関連URL

【静岡県】浜松城【浜松市中区元城町】

引馬城の後身となり浜松城。

 

参考URL

城郭放浪記(遠江引馬城)

open-hinata

 

参考文献

『静岡県の地名』

『日本城郭大系』9

公開日2021/11/03

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