城データ
城名:久留米城
別名:篠原城
標高:21m
比高:15m
築城年:永正年間(1504~1521)に地元の土豪が築城。
城主:小早川氏、有馬氏
場所:福岡県久留米市篠山町
北緯:東経:33.328579/130.507812
攻城記
久留米城の特徴は高い石垣。
圧倒的な高さを誇る。
城内へ。
月見櫓跡。
昔の城域は今グランドとなっている。
上からみると圧倒的な高さなのが分かる。
落ちたら間違いなく終わる。
艮櫓跡
ちょっと積み方が雑。
久留米城が河口近くなのが分かる。
どんどん進んでいく。
城の西部分を通過中。
本丸には神社が建っている。
太鼓櫓跡。
久留米城趾
戦国時代より土豪・豪族の間に、この古城をめぐって 興亡の歴史を綴りながら、元和七年(一六二一)有馬豊氏 丹波福知山より転封入城し、以降廃藩に至るまで十一代 二百五十余年の間、有馬家累代の居城として藩府が置か れていました。
本城は北西に筑後川を自然の濠とし、天恵の地勢を活 用したすこぶる険要の地にあります。
築城法は平山多聞造りで、高い白土の城壁にそびえたつ二層と三層の七つの櫓があり、本丸東南隅の三層建の巽櫓は壮大な偉容を 誇っていました。
現在は石垣だけが残り、城内には有馬三氏を祀る篠山神社や、有馬家資料を展示する有馬記念館があります。
春は花見、六月はしょうぶ、八月二十五日には鈴虫祭と、 市民の憩いの場となっています。
圧倒的な迫力。
久留米城ベストアングル
余湖図【久留米城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
久留米城 久留米市篠山町・城南町
筑後川を背後に築かれた平山城。
篠山城とも。本丸跡 全域が久留米城跡として県指定史跡。
近世小早川氏・田 中氏のあと有馬氏が入り、久留米領経営の政庁となった。
(近世以前の久留米城と有馬氏入城)
永正年間(一五〇四 ~二)在地土豪が築城、笹原城と称したという。
近世以前の城郭は、のち本丸となった小丘を筑後川と湿地帯が 取囲んだ天然の要害であったとされる(久留米市史)。
城地は近世久留米城の蜜柑丸の地であったともいう(筑後将士軍談)。
天文年間(一五三二ー五五)に再興され、天正(一五七三~九二)初期に高良山座主良寛の弟麟圭が居城したとされる。
天正一三年筑後における大友方と龍造寺方の合戦 では大友方の高良山に対する龍造寺方の拠点として利用 されたという(普聞集)。
同一五年の豊臣秀吉による九州国 割後に小早川秀包(毛利秀包)が入城。
所領は御井郡・御原 郡・山本郡内という(筑後封植録・筑後国史)。同年の肥後国人一揆に際しては肥後に出張した秀包に代わり小早川降景が在城した(天正一五年九月八日「豊臣秀吉直書」小早川文書)。
同一九年末肥前長崎より上洛の途上にあったイエズス会 巡察師ヴァリニャーノは求めに応じて当城に立寄り、城主秀包とその妻のマセンシア(大友宗麟の女)に対面した(フロイス「日本史」)。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦に伴う騒乱のなか、秀包家臣の守る当城は黒田孝高の軍勢により開城した(覧政重修諸家譜)。
秀包は西軍に属したため領知を失い、合戦後に三河国岡崎(現愛知県岡崎市)から田中吉政が筑後一国三二万石(三〇万石余とも、三三万石余とも) の大名として柳川城に入り、久留米城に次男則政を置い た。
久留米城は筑後五郡の蔵入米を収納するなど、北筑後の支配の拠点とされた(同七年「台所入之掟」中川文書)。
慶長一九年則政が死去、家老坂本和泉が城代として当城を預かり、元和の一国一城令で廃城。
元和六年(六二〇) 二代田中忠政が江戸で病死、嗣子がないため断絶、丹波福知山(現京都府福知山市)から有馬豊氏が二一万石を与えられ、翌七年久留米城に入った。
これ以降当城に有馬家 一一代が居城、幕末に至る。
『福岡県の地名』より一部引用。
城の歴史
永正年間(1504~1521):この地の土豪が築城(当時は篠原城と称する)
天正15年(1587):毛利秀包が13万石で入部する、このころ大幅改修により現在の久留米城が出来る。
慶長5年(1600):毛利秀包が関ケ原の戦いにて西軍につき改易させる。
その後田中吉政が32万5千石を封じられる。久留米城は柳川藩の支城となる。
慶長20年(1615):一国一城令にて廃城となる。
元和6年(1620):田中吉政の子、忠政は嗣子がなく没した為改易する。
元和7年(1621):福知山城主の有馬豊氏が入部する。(21万石で)
城主石高
毛利秀包時代:13万石
田中吉政時代:32万5千石
有馬豊氏時代:21万石
所感
●何もない城だと思ったら大間違いで、高石垣で周囲を囲っている姿に感動を覚える。
●ビューポイントは正面から登城する際の西側石垣、また城東側面の石垣、そこから廻り北側方面の石垣。
●現在本丸は神社となっている。
●堀に生えている草が興ざめ、これらが無くなり、また浚渫するとかなりイメージ違うと思う。
関連URL
参考URL
参考文献
『福岡県の地名』
『日本城郭大系』18
公開日2021/10/11