城データ

城名:高八山城

別名:山光寺山城

標高:430m

比高:80m

築城年:永正年間(1504年〜1521年)頃か

城主:上山氏

場所:広島県三次市三和町上壱

北緯:東経:34.630016/132.846757

高八山城はここ

 

 

攻城記

通から城山に向かって入ると看板があり道なりに進むとこの標識がある。

搦手から攻城する。

高八山城址

この山城は、もと南側の城山にあったが水の便が悪いために、下手の現在の山(山光寺山)に移ったと伝えられている。

築城は永正年間(1504~1520)には築かれていたと思われ実践的な山城である。

城主上山氏は大江流長井氏の一族が上山郷の地頭職に補され上山氏を名乗ったものという。

はじめは山内氏に属していたが天文(1532~1554)以前より毛利氏に属し、掃部助広信は天文13年7月28日備後布野の合戦で討死にしている。

城主上山元忠の備中高松における奮戦後、天正19年(1591)毛利氏に従って広島に移り廃城となる。

三和町教育委員会

つづら折りの道。

搦手の虎口。

 

本丸看板。

井戸跡。

三の丸。

三の丸土塁。

三ノ丸の北にある北の丸。

二の丸付近の石垣。

河原石。

本丸(奥は見張り台)

見張り台。

見張り台から本丸を望む。

麓を望む。

本丸北側の石垣群(全面石垣)

大手に当る道(三ノ丸方向の西)

見張り台から南に下っていくと堀切ぽいものがある。

土橋跡。

 

余湖図

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』高八山城

拡大図。

 

城の概要

全体的に土塁と石垣の多様が目立ち、最高所の郭の北側切岸は全面石垣の可能性がある。
城内及び城外の通路がよく遺存している。西側の道もしっかりしているが、土塁の向きからすれば防御正面は東側であろう。
城主は上山氏と伝えられる

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

 

 

高八山城は、標高五一〇mの高八山から北に延びる丘陵の先端に位置してお り、賀茂郡豊栄町清武から双三郡三和町敷名に向かって流れる飯田川沿岸の水 田地帯を望むことができる。

 

城主の上山氏は、大江広元の孫で備後国守護の長井泰重の弟泰経から出ており、飯田川流域一帯を領有していた。

 

明応二年(一四九三)、毛利弘元は、備後 国守護山名俊豊から、上山氏の領地に隣接する伊多岐(三和町上板木・下板木・ 羽出庭)・則光壱分(三和町上・黒河郷・津田郷·重永領家・小国等(世羅郡 世羅西町)の安堵を受け、同六年にも敷名郷(三和町敷名)伊多岐などを山名俊 豊から与えられている。

 

こうして、この地域一帯に毛利氏の勢力が拡大してい った。永正年間になると、毛利氏の領地に隣接する上山加賀守実広は、吉原次良五郎通親・敷名左馬助亮秀らと共に、毛利興元(弘元の子息)との間でお互いに協力することを申し合わせて毛利氏に従った。

 

高八山城の築造時期については明らかではないが、永正年間には築かれていたと思われる。

 

天文二年(一五三三)には毛利元就から領地を与えられ、同十三年には、県北の豪族で比叡尾山城(三次市畠敷町)に拠る三吉氏を攻撃するために出雲を出発した尼子方を、毛利・三吉方が双三郡布野村で迎え撃った時、毛利 方として参戦した上山実広の子広信は戦死している。

 

上山氏は、当初は高八山の山頂と谷を隔てた南側の城山と呼ばれている山に 築城を進めていたが、途中で水を確保することができないことがわかり、その 築城を放棄して、高八山山頂から北に延びる丘陵先端に築いたものが高八山城 といわれている。

 

なお、途中で放棄した城山にも二、三段の郭があり、またこの城山の西北方約四〇〇mには、大仙堂跡と呼ばれている居館形式の城跡があ 上山氏は、まずこの大仙堂跡と呼ばれている城に居を構え、後に の南にある城山に移り、最後に高八山城を築いたのであろう。

『日本城郭大系13』より

 

 

城の歴史

永正年間(1504~21) 上山加賀守実広は吉原次良五郎通親・敷名左馬助亮秀らと共に毛利興元に従う(この頃高八山城を築く)

 

1544年(天文13年):上山広信は、毛利・三吉連合軍に味方して出雲尼子氏と戦い、戦死(布野崩れ)

 

1562年(永禄5年):上山元忠は平佐藤左衛門・吉川経安・山県左京と共に本城常光誅殺後の山吹城を接収し、そのまま城番となった。

 

1582年(天正10年):上山元忠は備中高松城付近の守備固めのため、桂広繁らと共に備中加茂城に籠城した。

 

 

城主家系図

 

 

上山氏と毛利氏は10代以上遡れば同じ先祖である大江広元につながる。

 

城主石高

上山善右衛門(上山広忠)

499.190石

 

上山惣(宗)兵衛(上山就広)

138.190石

 

上山兵庫(上山元忠)

100.061石

 

上山五兵衛(上山信忠)

67.900石

 

所感

●比高は低いがよく整備されており気持ちのいい山城であった。

●石垣が多様されており本丸の北側面にある石垣群は素晴らしかった(苔むしており趣がある)

●見張り台の南側を下っていくと堀切や土橋跡もあり興味深い。

 

参考URL

城郭放浪記(備後高八山城)

西国の城(高八山城)

上山広信(ウッキペディア)

上山重広(ウッキペディア)

上山元忠(ウッキペディア)

上山広忠(ウッキペディア)

 

参考文献

『芸藩通志』

『萩藩諸家系図譜』

『毛利氏八箇国御時代分限帳』

『日本城郭大系13』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『萩藩閥閲録』巻40「上山庄左衛門」

公開日2021/04/29

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