城データ

城名:小倉城

別名:勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城

標高:13m

比高:13m

築城年:慶長7年(1602)に細川氏により築城とあるがそれ以前にもこの地に城はあったらしい。

城主:細川氏、小笠原氏(ただし江戸時代以降)

場所:福岡県北九州市小倉北区城内

北緯:東経:33.884854/130.873313

小倉城はここ

 

 

攻城記

天守閣。

城にはやはり晴天がよく似合う。

小倉城

 

細川忠興は、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国二郡を領する三十万石(検地 高三十九万九千石)の大名として入国、中津城に在城した。

 

居城を小倉に移すため慶長七年これまでの小倉の城を廃して新しく築城をはじめ、その年の十一月、小倉城 へ移った。

 

城の中心は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸で、 これを囲むようにしてニノ丸、三ノ丸を配した。

 

天守閣の外観は五重、内部は六層(現天守閣は、四重五層〉である。

 

これは、五重目の内部が上下二段に 分かれているためで、五重目の下段までは、白壁が塗り込まれ、上段は黒塗りで張り出しになって いる。

 

また天守閣の屋根には、破風がなく、当時この天守閣は、唐作りと称されていた。

 

城のすぐ東を流れる紫川を天然の濠とし、この川をはさんで東西に曲輪を設け、城下町をつく った。

 

城郭の総構えは、約八キロメートルにもおよび、これを濠で囲み、街道に通じる八か所の 門を設けた。

 

寛永九年(一六三二)細川氏は、肥後国に移り、替わって播磨国明石城主であった譜代大名の ただざね 小笠原忠真が小倉城に入り、十五万石を領した。

 

第二次長州征伐戦の慶応二年(一八六六) 八月一日、小倉藩は、田川郡に撤退する際、小倉城 に火を放ち、城内の建物はことごとく灰じんに帰した。

 

なお、天守閣は、天保八年(一八三七) の火災で消失、以降再建されなかった。

 

現在の天守閣は、昭和三十四年鉄筋コンクリートで、再建されたものである。

 

余湖図【小倉城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

小倉城

本城の位置は関門海峡を押さえる九州の咽喉部にあたり、紫川の河口にあっ て交通上の拠点であり、要衝の地である。

 

したがって、豊前地方と本州の連携を企てるには欠くことのできない要地であり、鎌倉時代以来、たびたび築城・ 合戦の記録が残されている。

 

すでに奈良時代に軍事的要衝の地としてこの付近に軍団が置かれていたことは、天平十二年(七四〇)の大宰少弐藤原広嗣の叛乱に際し、秘概・登美などの いたび 鎮営が記録されていることでも知られる。

 

くだって保元二年(一一五七)に平康盛が企敷郡長野(北九州市)に長野城を築き、長野氏を称じて以降、鎌倉時代に 入ると当地方にも多くの城が築かれたが、小倉に城が置かれたのは、小倉藩士春日信映の「倉城大略誌』によれば、文永(一二六四十七五)の頃に緒方大勝惟重が居城としたことに始まるという。

 

ただし、この城はただちに後世の小倉城には結び付かない。

 

『豊前志』には、菊池武光が小倉城を築き、三男弥太郎武親に居城させたと伝えるが、これも定かではない。

 

当地方では室町時代以来、大友・大内・少弐氏による合戦が入り乱れて展開 されていた。

 

文明十年(一四七八)、大内教弘の跡を継いだ大内政弘は豊前国をほぼ掌握し、やがて筑前国をも平定するに至った。

 

この頃、大内氏の諸記録に従えば、大内氏は紫川河口付近を押さえ、代官などを派遣していたことが想像 される。

 

この頃に小倉城の基礎となる城下が形成されたものであろうか。

 

その後、大友氏と毛利氏との抗争が重ねられたが、永禄十三年(一五七〇)、高橋鑑種が小倉を居城とした。

 

この時の小倉城は、明らかに現在の小倉城址本丸付近であったと考えられている。

 

天正十四年(一五八六)、大友宗麟は島津勢に圧迫され、豊臣秀吉に援助を求めた。

 

これを機として秀吉は九州征 伐を企て、翌十五年三月、みずから大 軍を率いて小倉城に入城した。

 

この間、 当時の小倉城主で、鑑種の養子高橋元種は秀吉の軍門に降っている。

 

九州平 定後、秀吉は論功行賞を行ない、豊前国企救・田川二郡六万石を毛利勝信(吉成)に与え、小倉城に置いた。

 

毛利勝信は文禄の役に四番隊将として出兵し、 慶長の役にも従ったが、関ケ原の役に は西軍に属したため黒田孝高によって 小倉城を占領され、慶長五年(一六〇 〇)十月、毛利勝信・勝永(吉政)父子は除封され土佐配流となった。

 

この毛利時代の小倉城は、後の細川忠興築城の小倉城の本丸・北の丸・ 範囲で、標高一〇m程度の小高地内にあり、後の三の丸が城下町に当たると考 えられている。

 

紫川を東の堀とし、西側に海に延びる堀を設けて外堀としたも のと思われる。

 

さて、毛利氏改易の後を受けて慶長五年十二月、細川忠興が丹後国田辺城から入部した。

 

領国は豊前国一円および豊後国国東・速見両郡の内で三十九万九 千石である。

 

忠興は豊前入部に当たり中津城を居城としたが、小倉城には弟興元を置いた。翌六年十二月、興元が兄忠興へ不満を抱いて大坂に出奔すると、居城を小倉城に移すことになった。

 

中津城は領国のほぼ中心にあり、しかも海に面しており、山国川を控える要地であった。

 

これを捨てて小倉城に移った理由としては、小倉が筑前街道と豊後街道の接点に位置すること、関門海峡を押さえて毛利氏に対する備えとなること、筑前黒田藩との確執から藩境守備上小倉城のほうが有利であったこと、海洋通商の面で周防灘から豊後水道中津よりは、関門海峡から瀬戸内に面する小倉のほうが有益であったことなど が挙げられる。

 

忠興は小倉入城と共に城の改修・拡張を行なった。

 

大大名の本城としては、 毛利勝信時代の小倉城では小規模すぎたからである。

 

慶長七年一月に着工され、 十一月下旬に竣工して忠興は入城した。

 

忠興は城の東側を流れる紫川と西側を流れる板櫃川を天然の堀とし、東から紫川に合流する寒竹川をもって南外堀とし、さらに、現在の砂津川を開き寒竹川から導水して海に落として外堀として いる。

 

この紫川と寒竹川・砂津川によって三方を包み、北は海によって防ぐ一 画(紫川と砂津川の間東西約一畑)を東郭とし、ここに多くの寺社を移している。

 

したがって、毛利氏時代 以来の紫川西側の西郭と共に、小倉城は面目を一 新したことになる。

 

『日本城郭大系』18より一部引用。

 

城の歴史

慶長7年(1602):細川忠興により築城(大幅改修)

 

寛永9年(1632):細川氏が肥後国に転封し、代わりに小笠原氏が入部する。

 

城主石高

細川時代:30万石。

小笠原時代:15万石。

 

所感

●出張中で昼休憩の僅かな時間での訪問だったので、天守閣位しか見ることが出来なかった。

 

●細川氏という大大名が築城改修したことはあり、美しい城や城下町を形成したのであろう。

 

●残念なのは1837年の失火での天守閣の消失と1866年の第二次長州征伐時の小笠原氏は城に火を放った事。

 

関連URL

 

参考URL

小倉城(公式)

小倉城(ウッキペディア)

城郭放浪記(豊前小倉城)

 

参考文献

『福岡県の地名』

『日本城郭大系』18

公開日2021/10/11

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