城データ
城名:島津義弘陣跡
標高:20m
比高:5m
築城年:天正19年(1591):豊臣秀吉によって名護屋築城開始、この頃陣屋も造成か。
城主:島津義弘
場所:佐賀県唐津市鎮西町波戸
北緯:東経:33.548360/129.849783
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
島津義弘跡
【特別史跡・昭和30年指定】
島津義弘:天文4年(1535)〜元和5年(1619)
官職名:兵庫頭、侍従、少将、参議
島津義弘は、薩摩国栗野城主です。文禄・慶長の役では軍勢1万人、息子久保も1千人、合計1万1千人で名護屋城に参陣しています。
渡海にあたっては、薩摩から船が到着せず、借り船で壱岐に渡り「日本一の大遅陣」として悔やんでいます。
慶長の役も渡海し、全州(チョンジュ)、南原(ナモン)まで進み、そして、「沙川(サチョン)の戦い」では明・朝鮮軍の大軍を撃破しました。
しかし、朝鮮半島から撤退も渡海衆では一番遅く帰国し、息子久保や多くの家臣を亡くすなど、苦労の連続だったと伝えられます。
猛将として知られるだけでなく、文人としての一面もあり、また、家臣達にも気配りを怠らない名君としても後世に語り継がれています。
島津義弘陣跡
鎮西町名護屋字井樋田(イビタンハナ、薩摩陣 薩摩)
波戸地区では最大規模の陣跡です。
丘陵部中央に石垣や土塁に囲まれた方形状の曲輪があります。
その西側には小さな曲輪群があり、そこには石塁が良好に残り虎口(入口)と推定される部分もあります。
また、岬の先端部まで石塁がみられ、当時の面影をよく伝えています。
この陣に滞在した島津忠恒(義弘の子)の日記には、陣の中で”蹴鞠(けまり)”や”茶の湯”を楽しんだことが記されています。
陣跡。
すぐ側に海が迫っている。
余湖図【島津義弘陣跡】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の歴史
天正19年(1591):豊臣秀吉によって名護屋築城開始、この頃陣屋も造成か。
慶長3年(1598):秀吉亡くなり、島津義弘も撤退する。
所感
●名護屋城に行った際に、少し寄ったが、大大名にしては小ぶりな感じを受けた。
●11000人の兵力で渡海しているが、これだけの兵士を滞留できるとは思えない。
●義弘の息子の久保もこの戦で亡くなる(病死)
関連URL
秀吉本陣である名護屋城。
参考URL
参考文献
『佐賀県の地名』
『日本城郭大系』17
公開日2021/10/10