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城データ

城名:小谷城

標高:218m

比高:120m

築城年:室町時代

城主:上原民部大輔祐政(赤松義則次男)

場所:兵庫県加西市北条町小谷

北緯:東経:34.945704/134.832295

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

城に行く前には家臣団の墓が並んでいる。

室町時代の墓と思われる。

 

小谷城主 赤松祐尚とその墓地

嘉吉の乱(1441)後、小谷城は落城したが、応仁の乱(1467~77)によって赤松氏が再興すると、赤松祐尚(すけひさ)が城主となった。

 

祐尚は、敬神、菩提心の厚い武将で寺社の修築、耕地の整理、市場の開設など領内の治世に尽力し、領民から慕われた。

小谷城南山麓の禅寺は、天文元年(1532)祐尚が菩提寺として建立したもので、山門には三つ巴と丸に二引両の紋がすえられている。

 

同寺は、祐尚の名をとって「祐尚山(ゆうしょうざん)」と山号を定め、小谷城の東側に朝夕陽光を受けて立っていた老松より「陽松寺(ようしょうじ)」と名付けたと伝えられる。

しかし、天文11年(1542)に播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ったが敗れて討死し、後にこの地に追善墓として祀られている。

 

この墓の近くには小谷城の戦いで落命した武士たちを供養した五輪塔・一石五輪塔が林立しており、その一角に五輪墓塔の残欠が集められているなど、小谷城の戦いが激しかったことを今に伝えている。

平成26年(2014)1月吉日

祐尚山陽松寺  小谷城跡保存会

 

赤松祐尚の墓。

形のいい五輪塔もある。

山頂に到着。

長大な曲輪があるのが特徴。

比高もある見通しも良い。

本丸跡。

先端部分に進んでいく。

一旦戻り周囲を散策。

曲輪の奥に進んでいく。

帯曲輪もある。

西小丸跡。

しっかり整備されており分かりやすい。

切岸(本丸方面)

本丸東屋にある小谷城復元図。

東の先端にある曲輪。

土塁。

虎口跡。

 

陽松禅寺

 

 

余湖図【小谷城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【小谷城】

 

 

城の概要

小谷城跡 現加西市北条町小谷・鴨谷町

標高二一八メートルの丘陵上に立地する中世の山城跡。

 

山麓からの比高は約一三〇メートル。城は東西一五〇メ ートル・南北四〇メートルと細長い。

 

連郭式に連なる曲 輪を横堀と帯曲輪が取囲む。

 

城の北東には戦国時代の特 徴である畝状空堀群が確認できる。

 

城主の居館は城の南側の通称殿ガチにあったと伝える。

 

「赤松家播備作城記」 によれば、宇野左京大夫が築城したとされる。

 

天文一一 年(一五四二)尼子晴久に攻められて落城、城主の赤松(宇野)直祐(祐尚)は自害したという。

 

ただし遺構からはそれ以降も存続したと考えられる。

 

享保五年(一七二〇)三月には幕府からの問合せに対し絵図が作製されている「小谷村 古城跡図」小谷区有文書)。

 

『兵庫県の地名』より引用。

 

小谷城

小谷城は小谷町城山にある。その場所は陽松寺の裏にある標高二一八mの山 で、地元の人たちは、この山のことを「城山」とよんでいる。

 

山頂に登ると、 五つの郭跡の削平地が階段状に並んでいる。一番東の山頂に一の郭(主郭)があ り、この五つの郭を空堀と土塁が取りまいている。

 

そして、その下に堀切・土 塁、二本の竪堀状のものが 二つある。

 

また西へ二の郭 ・三の郭・四の郭・五の郭と分れ、四の郭と五の郭の間には堀切が一本入っている。

 

この城の特徴として は、スプーンで山を削ったような堅堀状のものが四本あることである。遺構の 残存状況は良好である。

 

最初の城主は赤松満祐の弟上原民部大輔祐政(赤松義則の次男)であったという、はっきりしたことはわからない。

 

嘉吉元年(一四四一)六月の嘉吉の乱に際して、この城を預かったのは満祐の 弟直操侍者(義則の五男)だという。

 

直操侍者は龍門寺の禅僧であったが、法衣 を捨てて甲冑を着け、大長刀をかい込んで城ノ山城に駆けつけた。

 

満祐は弟伊予守義雅・直操侍者・赤松家の家老上原備後守の三人に、佐用・永良・宇野・ 富田・粟生らの将士一〇〇〇騎をつけて、但馬口に派遣し、生野峠の手前の田原に陣を取らせた。直操侍者は大山口を守ったが、そこに山名宗全(持豊)の率 いる四五〇〇騎が殺到して簡単に打ち破られ、粟賀・田原口での防戦も効なく、 搦手口は無惨な敗北を喫した。

 

直操は敗戦の責任を負って自害した。

 

赤松一族 の敗北によって小谷城は落城して山名軍の手中に落ち、そのまま廃城になったのか、山名方の部将が城主となったのかはいっさいわからない。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

年代不明:赤松満祐の弟上原民部大輔祐政が築城。

 

嘉吉元年(1441):嘉吉の乱の時に、赤松満祐の 弟直操侍者が城を預かるが落城する。

 

天文年間(1532~55):宇野氏が居城していたと伝わる。

 

天文11年(1542):城主であった赤松刑部少輔祐尚が播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ったが敗れて討死する。

 

天正年間(1573~93):織田信長や三木合戦時の羽柴秀吉により修築されたと思われる、また秀吉配下の山城宮内少輔忠久により修築されたともいう。

 

城主家系図

 

所感

●場内はきちんと整備されており、散策しやすい。

 

●曲輪が5つあり、堀切、土塁、切岸、犬走など様々な遺構もある。

 

●実は秀吉が信長を迎い入れる為に修築したとも言われている。

 

関連URL

【兵庫県】山下城【加西市山下町】

近隣の山城。

 

参考URL

小谷城(ウッキペディア)

城郭放浪記(小谷城)

山城賛歌(小谷城)

西国の山城(小谷城)

播磨の山々兵庫県加西市の小谷城跡(218m)

戦国の山城を歩く(小谷城)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/09/30

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