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城データ

城名:龍野城

別名:朝霧城、霞城

標高:45m

比高:15m

築城年:江戸時代

城主:脇坂氏

場所:兵庫県たつの市龍野町上霞城

北緯:東経:34.868730/134.544814

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

 

 

 

駐車場からそのまま進むとここに到着する。

近世城郭なので石垣が立派。

威圧感がある。

アップ画像。

城内に進んでいく。

門は小ぶり。

鉄砲狭間。

最初に見たの櫓まで到着。

なかなか趣がある。

再建された御殿。

御殿アップ。

御殿内。

正門のほうに進む。

桝形小口になっている。

正門。

脇坂氏の家紋。

 

脇坂氏関連

 

 

 

余湖図【龍野城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

ひなたGIS【龍野城及び鶏籠山城】

 

 

城の概要

龍野城(江戸時代初期)

慶長五年池田輝政が播磨一国を与えら れると、龍野城は池田氏家老荒尾但馬成房に預けられた (池田家履歴略記)。

 

輝政の時代からは南麓の平山城が使わ れた(龍野志)。

 

同八年からは荒尾志摩嵩就が、同一八年か らは池田長明(種政の末弟長政の子)が城代となり、池田氏が 因幡鳥取へ移封となる元和三年(一六一七)まで続いた(前掲 履歴略記)。

 

同年本多政朝が龍野に入封し龍野藩が成立。

 

同年の徳川秀忠領知朱印状(本多家文書)では領地・知行高 は揖西郡二万八千四二五石余・揖東郡二万一千五七四石 余の合せて五万石であった。

 

政朝は寛永三年(一六二六)姫 路藩主本多忠政の嫡子となり龍野を去った(「本多家覚書」 中根家文書)。

 

同年本多忠政の外孫小笠原長次が龍野六万 石(うち姫路領一万石)を与えられ、同九年まで在城した(「笠系大成」)福岡県立豊津高等学校蔵小笠原文庫)。

 

翌年岡部宣勝が 五万一千二〇〇石で入封するが、同一三年転封となった (「岡部家譜」大阪府岸和田市立郷土資料館藏)。

 

同一四年京極高 和が六万石で入封(京極家譜」香川県丸亀市立資料館蔵)、正保郷帳によると領地・知行高は揖西郡九五ヵ村・高二万 八千六七三石余、揖東郡七八ヵ村(うち一ヵ村は新宮藩と、 二ヵ村は林田藩との相給)・高二万七千六三石余、飾西郡九ヵ村(うち一ヵ村は姫路藩との相給)・高四千二六二石余。

 

京極氏時代の龍野城下町絵図(龍野市立歴史文化資料館蔵)や年 未詳の龍野城下侍屋敷図(田付家蔵)などとよると、

 

 

御殿のある山裾の主郭には石垣が築かれ、内部の建物は木塀と土塀で三区画に分けられている。

 

町屋は京極氏の時代に 現在の地割が完成したと思われる。

 

明暦四年(一六五八)京 極氏は讃岐丸亀(現香川県丸亀市)に転封となった(京極家譜)。

 

 

(脇坂氏時代)

寛文一二年(一六七二)脇坂安政が信濃国飯田(現長野県飯田市)から五万三千石で入封した「脇坂氏系譜」脇坂家文書)。

 

龍野城は京極氏転封後、廃城となり荒廃していたようで、主図合結記(蓬左文庫蔵)の城主記に安政は 「荒地賜之而修城」と記される。

 

龍野に到着した安政と家中六〇〇人は入居する家がなかったため、龍野町五町や 周辺村々に分宿を余儀なくされた「町中軒別覚帳」(龍野文庫蔵)。

 

安政は城郭および城地の再建を命じられ、幕府から銀三〇〇貫目を借りて修復に臨んでいる(脇坂氏系譜)。

 

延宝元年(一六七三)ようやく城主の居宅を城内に移している (龍野市史)。

 

藩主は安政の後、安照・安清・安興・安弘・ 安実・安親・安董・安宅と続き、安斐のとき明治維新となる。

 

『兵庫県の地名』から一部引用。

 

龍野城

近世城郭としての龍野城が鶏籠山麓に移されたのがいつの頃かもよくわかっいない。

 

石川紀伊守光元が天正五年に一万石を与えられて龍野城主になり、鶏籠山頂の 山城を山麓に移したともいうが、石川光元が 城主になったのは慶長元年(一五九六)で、こ の時に山上の建物を壊したともいい(『龍野志 』)、確かではない。

 

山麓の龍野城を築いたのは本多政朝か、または 小笠原長次時代ではな かったかと考えるのが 妥当であろう。

 

小笠原長次が豊前の中津に移 ったあとに岡部氏、次いで京極氏が入り、万治元年(一六五八)に京極氏が讃岐の丸亀に移ったあと、寛文十二年(一六七二)に脇坂安政が信濃の飯田から入部す るまで約一五年間、龍野領は天領となっており、この間に龍野城はかなり荒廃し ていたと思われる。

 

脇坂氏は一〇代続いて幕末まで龍野藩主であったが、城内には藩主の居館と会所の建物のほかには多聞櫓や一層の櫓・冠木門・調坂門・ 門・堀があるだけの小規模なもので、五万三千石の城郭としては異である。

 

しかし、安照は元禄十四年(一七〇一)に江戸城中で刃傷事件を起こし て御家断絶となった浅野内匠頭長郷の赤穂城受け取りの大役を全うし、安叢はは京都所司代から老中になって幕末の政局に重きをなした。

 

外様の小藩である寺社奉行として江戸の延命院事件を裁き、老中となって仙石騒動を裁き、安宅脇坂氏が、このように重用されたのは二度にわたって堀田家から養子を迎えた ためで、外様ながら准譜代とされたのであるが、これは譜代大名で固められた 幕閣では唯一の例外であった。

 

城門のうち、大手門は揖保郡揖保川町野田の因念寺に、冠木門と理門は同町正条の浄栄寺に、覇坂門は同郡太子町常喜の蓮光寺に移築されて残っている。

 

城内が狭いために部嶋の麓に別荘が営まれたが、建物の聚選亭は遺存してお り、その茶室は安宅が京都所司代として御所の造営に尽力した功により、二条 城内の茶室を賜わって移築したものと伝え、聚遠亭と共に市史跡に指定されて いる。

 

『日本城郭大系』12より一部引用。

 

城の歴史

 

和暦(西暦) 事象
元和3年(1617年) 姫路城主池田光政は幼少で家督を継いだ為に因幡国鳥取へ転封。
上総国大多喜より本田政朝が五万石で入封。
寛永3年(1626年) 姫路藩主本多忠政が没した為、本多政朝が宗家姫路藩の家督を継ぐ。
本多忠政の孫にあたる小笠原長次が六万石で入封。
寛永9年(1632年) 小笠原長次は豊前国中津へ転封。
寛永10年(1633年) 美濃国大垣より岡部宣勝が五万石で入封。
寛永13年(1636年) 岡部宣勝は摂津国高槻へ転封。
寛永14年(1637年) 出雲国松江より京極高知が六万石で入封。
万治元年(1658年) 京極高知は讃岐国丸亀に転封。
以後、一時天領となる。
寛文12年(1672年) 信濃国飯田より脇坂安政が五万三千石で入封。
宝永6年(1706年) 脇坂安清は弟安利に二千石を分知して五万一千石となる。以後、代々続いて明治に至る。

城郭放浪記(播磨龍野城)より引用。

 

所感

●城は小ぶりながら、石垣もしっかりしており安定感がある。

 

●戦国時代や鶏籠山城とセットで築かれていたと思われ、この部分に城主の居住地があったと推測されるが詳細は不明。

 

●脇坂氏が江戸時代の大半を治めていたが、5万石強という所領の石高にしては小ぶりな印象をうける。

 

●詰城(鶏籠山城)とセットで龍野城とも言われている。

 

関連URL

 

参考URL

龍野城(ウッキペディア)

城郭放浪記(播磨龍野城)

武家家伝(脇坂氏)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/09/26

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