城データ

城名:櫛田城

別名:宮山城

標高:142m

比高:70m

築城年:建長年間(1249~56)

城主:櫛田氏(櫛田八郎有景が築城)

場所:兵庫県佐用郡上月町櫛田

北緯:東経:34.965589/134.354112

櫛田城はここ

 

 

攻城記

櫛田八幡宮は城なのでそこまで道なりに進む。

鳥居があるのでそのまま進んでいく。

かなり長い道を進んでいく。

山の部分を見るが急である。

本殿が現れる。

櫛田八幡宮でこの部分が本丸であった。

周辺部。

下を見下ろす。

こんな山の中に河原石がある、投石用か。

堀切か。

窪みが確認できる。

 

位置関係

 

余湖図【櫛田城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【櫛田城】

 

城の概要

縮田集落の東北に標高一三〇mの小山があり、山頂にある櫛田城跡の一部分を整地して八幡神社が建立されている。

 

この八幡神社にちなんで「宮山城」 別名が生まれた。

 

城を築いたのは長田山城主得平三郎頼景の次男有景(『日本城郭全集』には頼景の孫とある)で、地名の「櫛田」をとって櫛田八郎有景と称した。

 

以後、有諸(有景の長子)・有喜(有諸の末弟)・有 興(有諸の子)・有祐(有興の子)・有範(有祐の弟)と相続き、在城した。

 

そして七代目有兼の時、嘉吉の乱 (嘉吉元、一四四一)に遭い、山名氏に滅ぼされた。

 

赤松政則が赤松家を再興して以後の寛正六年(一四 六五)に櫛田氏の子孫が再びこの城に入ったが、天正五 年(一五七七)に羽柴(豊臣)秀吉が佐用郡に軍を進めた 時、櫛田城にいたのは櫛田左馬助頼久であった。

 

羽柴勢の柏原城(徳久)攻撃の時、救援に向かう途中、頼久は林崎(一説に下徳久の 石井ともいう)という所で敵に遭い、激戦ののち戦死した。

 

城域の西方、櫛田集落の中央にある旧家長田家は櫛田氏の系譜の家で が長田山城主であったことから櫛田氏から長田氏に姓を変え、「櫛田」に住み つき、家宝として「源有景」と刻した矢の根を所蔵している。

 

城跡は中央に一段高く本丸(一五・五m×二〇・五m)を置き、左右に二の丸 (一四mX二0·五m)·三の丸(一八・五m×一五・五四)を一段低く造ってい の三の丸の南には二重の空堀が、また北方の二の丸の北にも ある。

 

また神社の境内は四四m×三四mの敷地であるが、ここにも郭があったようである。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

建長年間(1249~56):櫛田有景によって築城。

 

嘉吉元年(1441):嘉吉の乱により山名氏に滅ぼされる。

 

寛正6年(1465):再び櫛田氏の子孫がこの城の入城する。

 

天正5年(1577):櫛田佐馬助頼久(景則)の時代に羽柴秀吉軍が柏原城(徳久城)攻撃の際、救援に向かう途中戦死。

 

 

城主家系図

群書系図部集3-第二巻より。

 

櫛田有景は得平三郎頼景の次男(もしくは孫)とあるが、頼景は叔父で父は宇野則景との資料もある。

 

櫛田家は嘉吉の乱(1441)でいったん滅亡し後年子孫が入城している、1577年討死の櫛田頼久は有兼の子孫かは不明。

 

所感

●現在は櫛田八幡宮となっているが、この城でも戦国時代に多くのドラマがあったと思うと想像を掻き立てられる。

 

●城自体は複雑ではなく、2曲輪があるようでそこまで技巧的ではない。

 

●城跡が神社になる典型的な事例。

 

関連URL

【兵庫県】円光寺砦【佐用郡佐用町円光寺】

近隣にある円光寺砦。

 

参考URL

武家家伝(上月氏)

なんとなく城跡巡り(櫛田城)

群書系図部集3-第二巻

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/09/20

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