城データ
城名:平井山ノ上付城跡(秀吉本陣跡)
標高:143m
比高:60m
築城年:(天正6年(1578年)3月から天正8年1月)三木合戦期間中に築城された。
城主:豊臣秀吉
場所:兵庫県三木市平井
北緯:東経:34.807938/135.017494
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
陣城スタート。
国史跡 「三木城跡及び付城跡・土塁」
秀吉本陣跡(平井山ノ上付城跡:平成25年3月指定)
所在地 三木市平井・与呂木(よろき)・志染(しじみ)町安福田(あぶた)
三木合戦の際、羽柴(後の豊臣)秀吉が本陣とした付城です。
美襄川(みのかわ)と志染川の間に挟まれた山上に位置し、南西に三木城を望むことができます。
天正6年(1578)7月、織田信長の長男・信忠が三木城を支援する神吉(かんき)城や志方城(ともに加古川市)を攻略した後、築城したとされています。
8月に羽柴秀吉が入ると、10月15日に津田宗久を招いて茶会を開催しました。
同22日に別所方が襲来して合戦が繰り広げられましたが、別所長治の弟別所治定らが討死するなど、別所方の敗北に終わっています。
城は、土塁囲みの平坦部を主郭(Ⅰ)として東西に尾根が延び、その尾根から分かれる北側の尾根には軍勢が駐屯するための段状の平坦地群が設けられています。
主郭(Ⅰ)の東側に延びる尾根は、部分的に土塁で囲まれ、櫓台状の土盛りが見られます。
なお、Ⅱ・ⅢはⅠから独立した曲輪群を形成し、三木城を包囲する付城群の中では最大規模を誇っています。
平坦地群で兵士達が多く駐留する為に加工されたものと思われる。
太閤道。
主郭らしくかなり広い削平地になっている。
土塁。
主郭から望む風景。
竹中半兵衛墓所
位置関係
余湖図【平井山ノ上付城跡(秀吉本陣跡)】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の歴史
天正6年(1578)7月:織田軍として豊臣秀吉が三木城攻略の為に築城する。
8月:豊臣秀吉が入城する。
10月15日:津田宗久を招いて茶会を開催。
10月22日:別所方が襲来(別所治定)して合戦が行われるが、別所氏の敗北に終わる。
天正8年(1580):1月17日に別所長治が自刃して三木城が開城して役割を終える。
所感
●陣城なのである特定の期間しか使用されていないが短期間で広大な陣城を築城している。
●削平地が多いのはそれだけ駐留していた兵士の数が多かったと思われる。
●圧倒的な物量と兵力で囲い込む作戦は豊臣秀吉の得意な作戦で、この三木の干殺しは鳥取城の攻城戦でも使われる。
関連URL
この攻略で大いに粘った三木城。
秀吉付城群。
参考URL
参考文献
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/09/18