城データ
城名:御着城(ごちゃくじょう)
別名:茶臼山城,天川城
標高:13m
比高:2m
築城年:明応4年(1495)頃か。
城主:小寺氏
場所:兵庫県姫路市御国野町御着
北緯:東経:34.818348/134.741435
攻城記
小寺大明神。
この場所が本丸付近らしい。
城跡であるが、現在は遺構はほぼない。
御着城跡
御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。
永承16年(1519)小寺政隆が築城、則職・政職と継承され、天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(1441~44)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年間(1492~1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭として機能していた。
昭和52~54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われたことが判明。
中世の人々の生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。
宝暦5年(1755)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には、城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東には四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。
現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。
平成13年3月
姫路市教育委員会
当時はかなり城域も広かったものと考えられる。
御着城 二ノ丸跡
昭和52年度から54年度まで御国野小学校跡地再開発にともなう発掘調査が行われ、14世紀後半から16世紀後半にわたる遺構と青磁・白磁等の貿易陶磁器や備前焼・瀬戸焼等日本製陶磁器、瓦や鉄・銅製品等の遺物が検出された。
御着の文献上の初見は『太平記』にみえる山陽道の御着宿であり、14世紀後半の遺構・遺物はその頃のものとみられる。
御着城は15世紀前半に柵をめぐらせた居館として現れ、15世紀後半、明応4年(1495)に御着納所で小寺則職が薬師寺氏とともに播磨守護の段銭徴収にあたっており、この頃、小型の堀や溝がみられるようになる。
16世紀に入ると本丸に瓦葺き建物が現れ、16世紀半ばには土塁の構築と大規模な整地、本丸と二ノ丸を隔てる大型と中型の堀が現れ、各段に防御機能を高める。
これは播磨守護赤松義村と浦上村宗の対立に幕府管領細川氏の内紛が関わり、享禄3年(1530)小寺政隆は庄山城で浦上村宗と戦い戦死、御着城も開城、天文7年(1538)には、山陰から尼子氏が播磨に侵攻するなど動乱の播磨を背景としている。
16世紀後半には礎石建物や瓦葺建物が現れ、土塁は再三増築され、基底部幅は当初の5.5mから約10mに達し、部分的に石垣も構築され大規模な城郭に発展している。
永禄12年(1569)に羽柴秀吉ら織田軍2万が播磨に侵攻し、別所三木氏と龍野赤松氏は織田方、小寺氏は反織田方であった。黒田官兵衛が龍野赤松氏と青山合戦を行ったのはこのときのことである。
その後御着城主小寺政職は、織田方となるが天正6年(1578)荒木村重の離反に呼応したため、織田信忠・羽柴秀吉群は御着城周辺を焼き払い、火山(御着南山)に布陣した(樋山陣という)が、御着城から樋山陣に猛攻を加え、信忠・秀吉軍は的形大鳥地区の引入谷まで撤退したという。
秀吉は三木城攻囲中に官兵衛の叔父小寺休夢斎に御着城開城の手立てを命じ、天正7年(1579)御着城は開城し、翌年破却された(天正8年開城とする史料もある)
平成26年11月 姫路市教育委員会
姫路市文化財保護協会”
現在はグランドになっている。
丁度御着城に行った時は大河ドラマで「黒田官兵衛」をやっている時で幟もあった。
黒田家廟所。
官兵衛の祖父・重隆と生母(明石氏)の二人を祀る黒田家霊所がある。
城の概要
御城跡 姫路市御着町御着
山陽道沿いの微高地上に築かれた中世の平山城跡。
微高地の西から南側を天川が流れ、城域を区画する。
近世の史料では天川城(赤松家播磨作城起)·茶臼山,城(播磨鑑) ともよばれる。
現在、城跡の中央を国道二号が東西に通り、中心部は姫路市東出張所となっている。
永正一六年 (一五一九)に小寺政隆が築城したとされる。
ただし明応四年(一四九五)に御着納所が降山庄多田・山田両村に対する 守護の段銭螢収に当たったことが確認され(同年一二月六日 「山多田·山田村名主等电状餐」九条家文書)、それを命じた奉行人のなかに小寺則職がいることから(同年一二月一日 「爆察国守護未松氏奉行人書下案」同文書)、この頃には城がす でに存在し、小寺氏が城にかかわっていた可能性が高い。
鶴庄引付(既橋寺文書)にも同九年一二月のこととして「御着両奉行」の一人である小寺氏の名がみえる。
永正一八 年二月、守護赤松義村は浦上村宗を攻めるため「御着ノ 城」まで陣を進めている(鴨庄引付・「赤松記)。
また享禄三 年(一五三〇)別所村治に攻撃された東条城(現小野市)を救援するだめ浦上村宗が「小寺城」を落城させているが(「細川両家記」など)、これを御着城のこととする説もある。
永禄一二年(一五六九)織田信長の命を受けた木下助右衛門や三木城の別所氏による攻撃を受けたが(八月一九日「朝山日乗書状案」益田家什書)、天正三年(一五七五)には御着城主小寺氏が織田方に従っている(一一月二四日「八木豊信書 状」吉川家文書、「信長公記」同年一〇月二〇日条)。
同六年に摂津有岡城(伊丹城)の荒木村重が信長に反すると小寺氏も再び反織田方となり、翌七年当城周辺は織田信忠による放火を受けた(「信長公記」同年四月二六日条など)。
その後も三 木城との連絡道を封鎖されたりしながら(同書同年九月一一 日条など)、同年一〇月二八日までは存続していた(羽柴秀吉書状写」黒田文書)。
しかし翌八年の三木城落城に先立つ 一月一〇日に開城している(同月一四日「羽柴秀吉書状」反町文書)。
同年四月二六日、秀吉は当城および置塩城(現夢前町)・神吉城(現加古川市)などの破却を命じており、当城は 蜂須賀正勝がその任に当たった(「羽柴秀吉播磨国中城割り覚」一柳家文書)。
宝暦九年(一七五九)の茶臼山城地絵図(天川家蔵)によれ ば、城は四重に堀をめぐらし、城下を堀内に取込む総構 を形成していたらしい。
城の中心部は昭和五二年(一九七七)から同五五年にかけて発掘調査が実施されており、蔵とみられる瓦で区画された建物跡や礎石をもつ建物跡、 石組井戸などが検出され、陶磁器とともに多くの瓦が出 土している。
『兵庫県の地名』から引用。
御着城
御着城は姫路市御国野町御着に位置している。
旧御国野小学校跡地の再開発事業に伴い、遺構の保存状況を確認するため、昭和五十二年から姫路市教育委 員会によって発掘調査された。
調査は本丸・二の丸の一部を対象とし、調査面積は約一〇〇〇〇㎡がであった。
その結果、各種遺構が検出され、資料は現在、 姫路市教育委員会で整理中である。
この城は中世末期に別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城の 一つに数えられ、姫路城はその出城として機能していた。
小寺政職の時に羽柴 (豊臣)秀吉に攻められて落城し、落城後は廃城となり、江戸時代にその一画に 御着本陣が置かれた。
御着城跡の立地する茶日山は海抜約一三mである。
周囲 との比高約二―三mという極めて低平な沖積台地からなり、西辺と南辺を天然 の天川によって画され、
これを堀に利用している。
宝暦五年(一七五五)に作製 「播州餝東郡府東御野庄御着茶日山城地絵図」によれば、天川の内側に堀がもう一本確認され、東辺・北辺は四重の場をうがって防備されて がうかがえる。
さらに北方の斎藤山山頂に見張台を置き、天川の西側に馬場、 南側に的場があったことが確認される。
絵図を参考に現地踏査をすると、堀跡 は一部理まって不明な所もあるが、水田が一段低くなって確認され、絵図の徹 選性がほぼ裏づけられた。
『日本城郭大系』12から一部引用。
城の歴史
明応4年(1495):御着納所が降山庄多田・山田両村に対する守護の段銭螢収に当たったことが確認され城のはじめとされる。
※それを命じた奉行人のなかに小寺則職がいる。
永正16年 (1519):小寺政隆が築城したとされるが城として大規模改修したものか。
永正18年(1521):守護赤松義村は浦上村宗を攻めるため「御着ノ 城」まで陣を進めている。
享禄3 年(1530):別所村治に攻撃された東条城を救援するだめ浦上村宗が「小寺城」を落城させているがこれが御着城かもしれない。
永禄12年(1569):織田信長の配下に攻撃を受ける。
天正3年(1575):御着城主の小寺氏が織田方に従う。
天正6年(1578):荒木村重が信長に離反すると小寺氏も反織田方となる。
天正7年(1579):御着城周辺が織田信忠による放火を受ける。
天正8年(1580):1月10日に開城する。
城主家系図
青字が御着城に縁のある人物
政隆の頃に築城。
則職の頃に大改修実施。
政職と氏職はこの城に在城していたと考えられる。
所感
●中世末期には三木城・英賀城とならんで播磨三大城の一つに数えられる。
●播磨国守護である赤松氏の有力家臣団(小寺氏自身が赤松氏の庶流)
●黒田官兵衛(黒田孝高)は小寺氏を名乗っていた時期もある。
●城は現在は開発されており遺構は不明。
●黒田家の廟所があるが後世のもの。
関連URL
御着城城主の小寺氏がはじめは姫路城の城代であった。
播磨三大城の一つ。
参考URL
参考文献
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/09/13