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城データ

城名:轟城

別名:青葉城

標高:162m

比高:150m

築城年:応仁の乱頃

城主:垣屋氏(駿河守系統)

場所:兵庫県豊岡市竹野町轟字城山

北緯:東経:35.617212/134.749276

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

「竹野生コンクリート」の敷地の奥から入っていく。

尾根筋を進む。

堀切っぽい。

更に進んでいく。

本丸に到着。

周辺部。

下の曲輪を臨む。

本丸には秋葉神社が鎮座している。

下の曲輪に進んでいく。

しっかりとした削平地で十分戦える空間がある。

別の方向を確認。

本丸側を臨む。

なかなか地形を上手利用して築城している。

木々の隙間から麓を確認。

 

余湖図【轟城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【轟城】

 

城の概要

轟城跡 竹野町轟城山

竹野川左岸、轟集落の南西、標高約一四七メートルの 山上に所在し、北流する竹野川と西方から竹野川に注ぐ大谷川に取囲まれている。

 

集落との比高は約一三〇メ― トル。

 

青葉城ともいう。

 

(縄張り)

城域は広く、東西約二八〇メートル・南北約 三二〇メートルあり、標高一四七メートルに位置する主 郭を中心にして、三方向に延びる尾根に連郭式に曲輪を配置している。

 

現在秋葉神社が鎮座している主郭(南北四 五メートル・東西二五メートル)は、南西側(裏側)の急斜面を 切岸として利用し、北側と南東側に二ヵ所の幅広い坂虎 口をもつ。

 

主郭の北側と北西側には大規模な二つの曲輪 (二二×三七メートル、四四×二六メートル)で構成する帯曲輪 を構築して防御している。

 

主郭と帯曲輪との段差は七~ 八メートル。

 

帯曲輪の北側にはさらに二段の曲輪(三九メ 一八メートル、四三×一〇メートル)を構築し、そこから二方 向に延びる尾根にそれぞれ堀切・竪堀を設けて尾根筋を 遮断している。

 

とくに東尾根には堀切・竪堀の中に放射状に四条の竪堀をつくり、竪堀六条で構成する畝状竪堀を構築している。

 

主郭の北西尾根には、帯曲輪の先に深 さ一四メートルの大規模な堀切・竪堀を含む三条の堀 切・竪堀と細長い曲輪(一一×三四メートル)を配置。

 

 

主郭の 南東尾根には五〇メートル下りた所に浅い堀切があり、その先に三段の細長い曲輪(八×ニ七メートル、一五×ニ三メートルなど)が構築されている。

 

さらにそこから延びる二つの尾根筋を遮断するために、三条の堀切・竪堀が設け られている。

 

縄張りから判断すると、轟城は室町期に築 城起源をもち、戦国初期に改修され、さらに戦国末期に 堀切・竪堀や畝状竪堀で補強されたものと思われる。

 

(城主)垣屋隆国の三男国時が築城した(因幡垣屋系図)というが、他の史料では確認できない。

 

近年の研究では、 当城主竹野垣屋氏(駿河守家)の始祖は垣屋豊茂であろうとされている。

 

応仁元年(一四六七)七月山名持豊は垣屋駿河守(豊茂)に対し、京都舟橋合戦での戦功を賞して感状を与えている(同月二〇日「山名持豊書状」垣屋文書)。

 

文明一六 年(一四八四)七月、竹野郷居住の豊峰が六月に没した先考 (亡父)駿河守聖忠のために三十五日忌を行った法語が記録されている(帰周和尚語録)。

 

また犬追物之奥書(但馬志料) に「文明十、花朝上旬、垣屋駿河守入道聖忠、判」と自 署している。

 

この聖忠(法名)が豊茂に比定されている。

 

豊茂の子豊種は文明一五年一一月二六日と延徳三年(一四 へんじょう 九一)二月吉日に遍照院(蓮華寺)に田地を寄進している(蓮華寺文書)。

 

永正三年(一五〇六)五月七日、山名致豊は興長寺に対して、守護領(竹野郷)の百姓を許可なく陣夫(人夫) として使役しないように禁止令を出しているが、その執行者として山名致豊の代官垣屋孫三郎の名がみえる今山名致豊書状」興長寺文書)。

 

天正期(一五七三十九二)には垣屋豊続が城主で、天正三 年四月には芸但和睦の推進者として豊続の名がみえ(同月 一五日「毛利輝元判物」土肥文書など)、同年中には毛利方として織田方の田結庄是義を破り、鶴城・海老手城(現豊岡市)を支配下に置いた(同三年と推定される一一月二四日「八木 豊信書状」同七年七月二七日「吉川元春等連署書状案」吉川家文 書など)。

 

同七年七月吉川元春は但馬出兵を決意して毛利隆景にその了解を求めているが、その書状のなかに、垣屋豊続が但馬海岸部の竹野から諸寄(現浜坂町)までの間に要害五、六ヵ所を設け、船手を動員して警備しており、 織田方の丹後水軍の因幡・伯者・出雲・石見出撃を阻止している状況が記されている(前掲吉川元春等連署書状案)。

 

豊続は同八年には水生城・宵田表(現日高町)などで羽柴軍と戦うが(同年五月一九日「山名氏政書状」古志文書など)、四月宵田城が落ち、羽柴秀吉に下った。

 

同年六月八日豊続 は秀吉から特別に、宮部善祥房継潤の所領の美含郡(二方郡か)内に二千石の知行を宛行われている(今羽柴秀吉知行宛行状」垣屋文書)。

 

このときの豊続の居城は轟城ではなく、観音山城(現浜坂町)であろうとされている。

 

以後豊続は秀吉の因幡鹿野・鳥取攻め、備中攻めに参陣している(「武 功夜話」など)。

 

慶長八年(一六〇三)一月、垣屋駿河(豊続の 子、知継)は小出氏の家臣となり、三千一七六石余を宛行 われている「小出吉政知行宛行状」垣屋文書)。

 

『兵庫県の地名』より引用。

 

 

轟城

轟城は国鉄山陰本線竹野駅から南へ四㎞行った轟の西南に屹立する独立峰の頂上にある山城である。

 

竹野川が天然の堀のように脚下をめぐって北流し、対岸の蓮華寺と相対している。

 

竹野駅の背後にある草飼の通称「城山」は轟城の 出城だったといわれている。

 

初代垣星越中守国時は、山名持豊(宗全)の与力被官として上洛し、応仁の乱 (応仁元年=一四六七=から文明九年=一四七七=まで)に参加している。

 

垣屋氏が 轟に城を構えたのはこの頃で、須弁・金康・須欲・本見塚の鉱山に目をつけた からとみられている。

 

天正三年(一五七五)十月、城主の垣屋駿河守宗時は一族 の命運をかけた豊岡の野田合戦に参戦し、田結庄氏を滅ぼした。

 

垣屋氏は毛利党で、同七年に吉川元春は垣屋豊続の再三の出兵依頼に応えて轟城へ進出し、 作戦を指揮した。

 

ついで翌八年、羽柴(豊臣)秀吉の但馬再征の時に城主垣屋豊続は同志と図り、水生城に籠城して抗したが、敗れた。

 

居城の轟城は水生城落城の報を聞いて蜂起した土民の一揆に攻められ、留守居の武将や婦女 て打ち殺されたという。

 

その首塚が蓮華寺境内に造られている。 城跡は標高一六二m(比高一四〇m)の山頂にあり、本丸と思われる郭は東西 三〇m×南北四〇mのやや丸味をもった長方形の削平地で、山の最頂部にある。

 

これを取り囲む形で約五m下がって東北に半月形の郭が連結している。頂上部 の郭付近は、北西から南東にかけて急斜面になっており、それだけでも要害の 地形であるが、構造が梯郭式の簡素な山城で、これを取り巻く堀切や竪堀・土塁があるはずだが、現在のところ、確認されていない。なお、北にある鬼神谷へと延びる低い検線上に馬場道があっ たといわれている。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

応仁元年(1467):山名持豊は垣屋駿河守(豊茂)に対し、京都舟橋合戦での戦功を賞して感状を与えている。

 

文明16年(1484):垣屋豊峰が六月に没した亡父である駿河守聖忠のために三十五日忌を行った法語が記録されている。

聖忠(法名)は豊茂と比定されている。 豊峰は豊種か。

 

文明15年(1483)と延徳3年(1491):垣屋豊種が遍照院(蓮華寺)に田地を寄進している。

 

天正3年(1575):城主の垣屋駿河守宗時は、織田方についている鶴城主である田結庄氏を滅ぼした。

 

天正8年(1580):垣屋豊続は水生城・宵田表(現日高町)などで羽柴軍と戦うが、宵田城が落ち、羽柴秀吉に下る、そして宮部善祥房継潤の所領の美含郡(二方郡か)内に二千石の知行を宛行われる。

 

慶長8年(1603):垣屋駿河(豊続の子、知継)は小出氏の家臣となり、三千一七六石余を宛行われる

 

 

城主家系図

資料が散逸しており家系図には混乱が生じている。

 

城主石高

豊臣秀吉から2000石の知行を賜る。

 

関ケ原以降に小出氏の家臣となり、3176石の知行を賜る。

 

 

所感

●城の場所は分かるが、入り口が不明、「竹野生コンクリート」の敷地の奥から入っていく。

 

●山頂には秋葉神社があるが現在では祀られている様子もなく、傷んでいる。

 

●戦国時代には長男系統の越前守垣屋氏は西軍につき断絶、結局轟城主の三男系統駿河守垣屋氏が東軍につき生き残る。

 

 

関連URL

【兵庫県】鶴城【豊岡市山本字鶴ガ城】

轟城主である垣屋豊続が鶴城を攻めて田結庄是義が自刃する。

【兵庫県】宵田城【豊岡市日高町岩中字城山】

次男系統で越中守垣屋氏の居城である宵田城。

 

参考URL

城郭放浪記(但馬轟城)

西国の山城(轟城)

山城攻略日記(轟城)

山城賛歌(轟城)

垣屋氏(ウッキペディア)

武家家伝(垣屋氏)

 

参考文献

『豊岡市の城郭集成Ⅰ』

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/09/05



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