城データ

城名:宵田城

別名:南龍城

標高:155m

比高:140m

築城年:享禄2年(1430)

城主:垣屋氏

場所:兵庫県豊岡市日高町岩中字城山

北緯:東経:35.462789/134.768558

宵田城はここ

 

攻城記

鹿島神社。

公園になっており、歩いて登っていく。

旧道を進む。

途中から眼下を臨む。

とにかく進んでいく。

削平地もあり曲輪跡だと思われる。

こちらも曲輪跡。

二の丸跡。

三の丸。

切岸で高低差のある曲輪。

周辺部。

整備がされており見やすい山城。

川が天然の堀をしている。

本丸、鉄塔が建っている。

北を臨む。

しっかりと土塁が残っている。

本丸ど真ん中。

 

余湖図【宵田城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【宵田城】

 

 

城の概要

1.位置と城史

宵田城は円山川支流の稲葉川右岸、岩中集落西側、標高156mの山頂に所在し、山裾を円山川に注ぐ稲葉川が堀のように取り巻いて流れている。

 

城域は東西・南北とも約400mもある大規模城郭で、岩中集落との比高は約136mを測る。

 

宵田城は永享2年(1430)楽々前城主垣屋隆国が築き、二男垣屋国重を城主とした(因幡垣屋系図)というが、一次史料では確認できない。

 

文献的に確認できる城主は、熙知、遠忠、豊知、孝続である。次にその史料を紹介してみよう。

 

 

文安5年(1448)10月、垣屋知は竹野・興長寺に対し、段銭を免除している(垣屋熙知段銭免除状「興長寺文書」)。

 

文明4年(1472) 5月、垣屋遠忠は出石・総持寺に対し敷地の證文・坪付等を提出させている(垣屋遠忠書下「総持寺文書」)

 

文明9年(1477)6月、垣屋遠忠は養父郡小佐郷国衙(光院に寄進している(屋遠忠書下「日光院文書」)。

 

明応9年(1500)6月方庄本所分の内、観音寺村の田地1町を日光院に寄進している(垣屋遠忠寄進状「日光院文書」

 

永正6年(1509) 9月、垣屋豊知は妙見社の神田として三方庄本所分の半済分5段に田地(村尾)を寄進している。

 

永正15年(1518) 8月、垣屋豊知は三方庄本所分の田地5段を日光院に寄進している。

 

元亀2年(1571)6月、垣屋越中守学続(宵城主)垣屋下野入道宗現は佐伯孫左衛門に森津(旧豊岡市)辺りの新田を売渡している(垣屋宗現・同孝続田地売渡状「佐伯文書」。

 

天正6年(1578) 4月には、垣屋豊続は「宵田表」の戦・「水生古城」の戦で織田勢一時的に勝利している。

 

この戦いは宵田城や水生城周辺での合戦で、毛利方(垣屋豊続、古志重信、宇山久信ら)と織田方(垣屋光成・恒総?、宵田城主、伊藤与三左衛門尉ら)の戦いである。

 

この時豊続の子垣屋兵部丞に討捕られた、織田方の伊藤与三左衛門は「宵田城の城督」であった。

 

城督とは城代のことで、天正6年段階では宵田城は完全に織田方に握られていたことになる。

 

またこの時の宵田城主は、元亀2年に史料を残している「孝続」であろう。

 

天正13年(1585)には有子山城主前野長康が宵田町に楽市令を出し(「但州発元記」)、文禄4年(1595)正月には前野長康が「江原新町」の諸役を免除すると共に、在郷百姓の新町への移住を禁じている(前野長康諸役免除状「田口文書」)。

 

また、小出吉政も文禄4年8月「江原村新町」の諸役を免除している(小出吉政判物「田口文書」)。

 

『豊岡市の城郭集成Ⅱ』豊岡市教育委員会より引用。

 

宵田城

宵田城は日高平野の南端、円山川の狭隘部に突き出た標高一五〇mの山城で、 江原市街地を眼下に見おろし、はるかに豊岡方面を望む要衝の地にある。

 

城の 東南の三面は急峻で、稲葉川が堀のようにめぐっている。頂上の本丸は広い平地に造られ、石垣・石段などに使用されたらしい石がわずかに残って いる。

 

四方には数段の郭が造られ、山城としての雄姿を示している。

 

本丸跡からは古瓦が出土し、東二の丸に井戸跡と水を引いた水路跡が残っている(『但馬の城』)。

 

この城は、永享二年に楽々前城主垣星隆国が築城し、二男の垣屋隠岐守国重を城主とした。

 

天正三年(一五七五)の野田合戦は鶴城主(豊岡市)田結庄是義と垣屋一 族との戦いであった。

 

気多郡・城崎郡一帯は垣屋氏の勢力地域であったが、その中にあって田結庄氏が織田色を濃厚にしてきたため、垣屋豊続 がこれを攻めたといわれる。

 

また垣屋忠顕も垣屋光成もこれに加わったともい われ、諸説があってはっきりしない。

 

「垣屋系図」によれば、「垣屋忠顕・垣屋光成・垣屋宗時が是義を討つ」となっている。

 

天正八年の羽柴(豊臣)秀吉の第二次但馬征討に関しては水生表の戦があり、 続いて宵田表の戦があった。

 

この宵田表の戦は秀吉の但馬攻略の最終段階の戦いであった。

 

宵田表の戦を知りうる唯一の記録として、次のような垣屋豊続感状「田結庄文書」がある。

 

今度宵田表に至り相勤候処、則ち、織田勢罷出候の間、水生古城において合戦に罩び候処、初の合戦此方の手後れに候て、右左の者共越度仕るについて、敵いよいよ勝に乗じて相懸り候の間、諸勢坂中迄引上、難儀これに 過るべからず候き、然りと雛も拙者父子相闘候の処、貴所の儀同所に御鬮候、誠に手数を砕の剋、相戦い切崩し勝利を得るの刻、貴所比類無き御勤め目を驚かせ候、剰さえ鍵下において宗徒の上勢一番頸を討捕候、寔に拙 者家における御厚恩迄に候、即ち其の趣、公儀に申し上げ候処、御感状成 され候、御頂戴目出たかるべく候、仍って軽浅の様に候といえども、臨指一備前事進入れしめ候、感申さしめ候、殊の外切れ能と申し到来候問、 蔵本望たるべく候、尚以って、向後御入魂希うところに候、た 野和泉守申し入れらるべく候の間、詳かあたわず候、恐々謹言。

(天正八年) 六月十三日

垣屋駿河守

豊続(花押)

岡遠江守殿

御宿所

(『日高町史』)

 

この書状でわかるように、水生古城の合戦は手遅れとなったが、宵田城下の宵田表合戦は一時的にもせよ、勝利を得たので、垣星豊続が岡遠江守に感状を出している。

 

宵田表合戦の時の宵田城主は垣星光成の弟峰信であった。

 

峰信は薬々前城に逃れ、六月十八日に討死した。

 

鶴峰城主光成は秀吉に路伏した。

 

これで秀吉の但馬征討は終了した。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城主家系図

 

城主石高

垣屋氏全体では10万石とも言われる。

 

所感

●垣屋氏は山名四天王として大いに勢力を張っていたが、豊臣秀吉の但馬征討により没落した為家系図に混乱が生じている。

 

●城はしっかりと造られているが、宵田表合戦の前により強固に築城されたのかもしれない。

 

●公園化しており、比較的攻城しやすい山城。

 

 

関連URL

【兵庫県】鶴城【豊岡市山本字鶴ガ城】

同じく山名四天王である田結庄氏の居城、他の垣屋氏と一緒に攻める。

 

参考URL

城郭放浪記(但馬宵田城)

西国の山城(宵田城)

山城攻略日記(宵田城)

宵田城 -但馬の城ー – 秋田の中世を歩く

垣屋氏(ウッキペディア)

武家家伝(垣屋氏)

 

参考文献

『豊岡市の城郭集成Ⅱ』

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/09/04

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