城データ

城名:有子山城

別名:高城,有子城

標高:321m

比高:310m

築城年:天正2年(1574)

城主:山名祐豊,山名氏政,前野長康,小出吉政,小出吉英

場所:兵庫県豊岡市出石町内町

北緯:東経:35.455010/134.878834

有子山城はここ

攻城記

出石城の奥から登城できる。

山道を進んでいく。

とにかく最初は急な斜面を登っていく。

所々整備されている。

井戸曲輪付近。

だんだん標高も高くなっていく。

最初の石垣に到着。

最初の曲輪。

この辺りからの景色も大変すばらしい。

素晴らしい石垣。

何かの施設があったものだと考えられる。

広い曲輪が多いのが特徴。

この場所が一番長い石垣が連なっている。

織豊時代の石垣か。

この石も何かしらの手が加えられているだろう。

さらに進んでいく。

山頂に到着。

 

 

国史跡 有子山城跡

指定年月日 平成8年11月13日
指定理由

基準 
特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)史跡の部二(城跡)による。

 

説明 

有子山城跡は、室町幕府の四職家で最大級の大名であった山名氏が、根拠地である但馬国に築いた山城跡である。

 

同じく山名氏の居城であった此隅山城跡とともに、我が国の中世の政治史と城郭史を示す貴重な遺跡であるので、山名氏城跡として一括して史跡に指定し、その保存を図るものである。

 

 

但馬山名氏

山名氏は新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって室町幕府成立の騒乱で活躍。

 

室町幕府の四職家で最大級の大名となった山名氏は、その一族が但馬、因幡、丹波、美作など日本全国66カ国中11カ国の守護職を兼帯して「六分の一殿」と呼ばれた。

 

明徳の乱により一族の内紛を起こし衰退したが、嘉吉の変で勢力を回復し、応仁の乱では宗全(持豊)が西軍の総帥となった。

 

但馬はこの山名氏の根拠地であり、戦国時代まで一貫して山名氏が守護大名としてこの但馬国を治めた。

 

しかし戦国時代に入って山名氏はその勢力を失い、永禄12年(1569)に織田軍の木下秀吉の但馬侵攻により、当時居城であった北方約2.5kmにある此隅山城が落城。

 

この後に山名祐豊が築いた城がこの有子山城で、天正2年(1574)のことという。

 

またその名は「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名されたものという。

 

しかし天正8年(1580)ふたたび織田軍の羽柴秀長の但馬侵攻によって有子山城は落城、城主は因幡に出奔した。

 

このあと秀長が入城し、のち天正13年(1585)には前野長康が5万石で入城するが、豊臣秀次事件に連座して改易され、播州龍野から小出吉政が入城。

 

江戸時代に入りその子吉英の近世出石城築城により廃城となった。

 

城郭遺構

最上部に石垣によって築かれた主郭とその西方に階段状に続く曲輪があり、また、主郭の東南に千畳敷と呼ばれる曲輪が残っている。

 

豊臣時代のいずれかの城主によって改築されたものと思われる。


山腹にも小規模な曲輪や堀切などの空堀を見ることができ、中世山城の特徴を今によく伝えている。

 

さらに周辺には石垣に用いられている石とよく似た石が露出しており、石垣の石が山中から採取されていたことを思わせる。

 

城下町。

本丸付近の石垣。

素晴らしい石段。

本丸周辺石垣。

見どころが多い城域。

別の曲輪へ進む。

千畳敷に到着。

千畳敷スペースには何かしら人工的な建物や居住スペースがあったのかもしれない。

下山する途中の石垣。

山名時代ではなく、織豊時代に改修されたものか。

有子山全景。

 

位置関係

 

余湖図【有子山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【有子山城】

 

城の概要

有子山城跡 出石町内町

出石城下の南東方、北流する出石川の右岸、標高三二 一・五メートルの城山(有子山)の山上にある。

 

のち当城の 山棚に出石城が築造されたことから、これと対比して高城ともいった。

 

ただし史料では当城も出石城・出石之城 などと散見する。

 

天正二年(一五七四)頃此隅山城に代わる新城として山名祐豊が築いたといわれ、山名氏のあと城主は羽柴長秀(秀長)、次いで豊臣秀吉の部将青木勘兵衛尉秀以・前野長康(長素)・小出吉政と代わった。

 

出石城下との比高は約三一〇メートル、城域は東西七四〇メー トル・南北約七八〇メートルと広大である。

 

主郭から南 東、北、北西、西の四方向に延びる尾根に連郭式に曲輪 を配置し、各尾根の最先端の曲輪の先に構築された大規 模な堀切・堅掘で城域を設定しているところに特徴がある。

 

ただし主郭周辺部は織豊勢力によって石垣の城に改 修されている。

 

永縁一二年(一五六九)八月の此隅山域落城後、山名祐豊は但馬を脱出して泉州堺に逃れたが、織田信長の御用商人今井宗久の斡庭で同年冬に帰国を果し(今井宗久日記)、元亀二年(一五七二)一一月には一族の朝来都夜久野域(現山東町)城主機部豊道とともに丹波山垣城(現育通町)を攻めている(同年一一月二五日「山名祐豊感状」岡村文書など)。

 

天正五年一一月、羽柴長秀の第一次但馬進攻により南但馬は制任された。

 

長秀は北但馬の国衆に対する和平工作を進め、 翌六年春、祐豊の子山名氏政が竹田域(現和田山町)の長秀のもとへ参向している。

 

同八年三月から四月にかけての長秀によを第二次但馬侵攻の時、当城には垣屋隠岐守恒総、同駿河守豊続が立籠もっていたが、一戦も交えず落城したという(武功夜話)。

 

なお落城は五月一六日との伝承が あるが、「福成寺広原谷中」に三月晦日付で羽柴秀吉の禁制(福成寺文書)が出されているので(現内町の福成寺は当時出 石川対岸の弘原にあり、長秀の本陣になったといわれる)、 は四月初旬であったと思われる。

 

落城後因幡に逃れた氏政は、その後秀吉の馬廻衆となり、天正一〇年播磨 古郡内で二千石を拝領している(同年八月二八日「羽柴秀吉 判物」記録御用所本古文書)。

 

天正八年但馬の知行割が行われ、羽柴長秀は但馬七郡 一〇万五千余石(ほか二万石は宮部善祥房継潤)と播磨二郡を 与えられた。

 

長秀は同年五月に当城に入部し、翌年六月 の因幡鳥取城攻めには当城から出陣している(武功夜話)。

 

また当城には城代として木下昌利を配置していたようで ある(天正九年三月九日「木下昌利書状」総持寺文書)。

 

本能寺の変後の天正一一年六月、旧領を安堵された長秀は播磨 姫路城主となり、「出石御城代」であった青木勘兵衛尉が 一万八千石を与えられて当城に配置された。

 

同一三年長秀は大和郡山(現奈良県大和郡山市)に移り、前野長康が但馬 七郡七万五〇〇石を与えられて当城主となった。

 

しかし 長康は文禄四年(一五九五)豊臣秀次事件に連座して息子景 定とともに切腹、前野家は断絶となった(武功夜話)。

 

前野長康除封後の文禄四年八月三日、小出吉政は長康 旧領のうちで五万三千二〇〇石を与えられ(「小出吉政知行 状」金井文書)、播磨龍野から当城に入った(吉政の所領はのち五万五千石となる)。

 

慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦で吉政は父秀政(和泉国岸和田城主)とともに西軍に加わり、丹 波・但馬の諸将とともに丹後国田辺城(現京都府舞鶴市)の 細川藤孝を攻めている。

 

しかし吉政の弟秀家ほか一族は 東軍にくみし、このため戦後は秀政・吉政ともに許され、 旧領を安堵された。同九年秀政が死ぬと、吉政が摂津岸和田城に移り、当城は吉政の嫡男吉英が継いだ(以上「寛政重修諸家譜」など)。

 

この頃当城山裾の居館部を大改修し て出石城が築かれた。ところで従来当城は出石城築城と ともに廃城になったとされていたが、最近の研究では出石城築城後もその詰城として役割を担っていたものと考えられ(千畳敷曲輪から一七世紀初頭の丹波焼の擂鉢を表採している)。

 

元和元年(一六一五)の一国一城令の時期に廃城となったと思われる。

 

なお山名氏が城主であった時代にすで に江戸期の出石城下の母胎となった城下町の町割がなされていたと考えられる。

 

『兵庫県の地名』より一部抜粋。

 

有子山城

有子城のある城山は、東の但東町側から続く連峰山地の西側先端部分にあり、 出石町を南側から抱えるようにそびえている。

 

山麓を東から西に向かって流れ ていた出石川は、ここで大きく九〇度北に曲がり、出石盆地の穀倉地帯を潤し て、円山川に合流している。

 

城跡は標高三二一mの山頂にあって、本丸をはじめとして幾つかの郭と石塁・ 堀切を有する本格的な山城である。

 

永禄十二年(一五六九)に毛利元就の要請で 織田信長が羽柴(豊臣)秀吉ら総勢二万余人で但馬攻めを行ない、約二週間ばかりの間に但馬の一八の城を陥れたと伝えられているが、但馬山名氏の居城「此隅城」も、この時、落城した。

 

但馬の守護としての山名氏の栄光もこれで終わ ったかにみえたが、城主山名祐豊は子の氏政と共に、残存勢力を結集し、最後の城を天正二年に築いたのが、この有子城である。

 

此隅城跡には石塁・土塁の跡をみることができないが、有子城跡はそれに比 べ、標高も約三倍からの高さを持つ山城であり大規模な石塁を何段にも構えて いる。

 

織田氏や毛利氏の軍勢に対抗して備えを堅固にしたことは理解できるが、 中世から近世への過渡期で、戦術も騎馬戦から鉄砲戦へ移行する時期であり、 一般的には築城もしだいに山城から平山城へ変遷している時代に、なぜ大規模な山城の構築に取り組んだのだろうか。

 

前の此隅城があまりにももろく崩れ去 ったからであろうか。

 

多くの疑問が残るが、この築城に費やした多大の金品や 労力は、かえって山名氏に危機を招いたのではなかろうか。

 

城に移った翌天正三年(一五七五)に思いがけなく、丹波の黒井城城主荻野直正が但馬に攻め入り、竹田城・有子城を襲っている。

 

この時、織田信長に助けを求め、これに応じた信長は明智光秀を但馬に送り、竹田城を攻めてこれを奪い返した。

 

荻野直正はその勢いを恐れてただちに丹波に退いたので、有子城 は事なきを得た。

 

この頃、山名氏はすでに昔日の威勢を失い、山陰の雄である尼子氏や毛利氏 の勢力に挟まれ、また信長の圧力を気にしながら余命を保つにすぎなかった。

 

日増しに信長の全国統一の動きが激しさを加える頃になると、但馬の山名氏を 支えてきた四天王である太田垣・垣屋・田結庄・八木の各氏も動揺の色を隠すことができなくなった。

 

信長の第一次但馬征伐が始まったのは、ちょううどそんな天正五年(一五七七)のことであった。

 

秀吉は姫路城を修築して、 まず播磨を固め、ついで但馬に攻め入り、山口・竹田の両城を落とした。

 

第二次但馬征伐は三年後の同八年(一五八〇)で、秀吉の弟秀長を将として攻め、竹田城を 再び陥れ、五月十六日、秀長軍は浅間城を越えて弘原の福成寺に本陣を構え、山頂の有子城を激しく攻めたと伝えられている。

 

この時の城主山名氏政は因幡に逃けたが、城に残った父祐豊はそれから五日後の二十一日、七十歳で病没した。

 

氏政はその後、豊臣秀頼に味方して大坂城に入り、夏の陣(元和元、一六一五) で戦死した。

 

但馬の山名氏の栄光も、時氏から数えて九代約二〇〇年で、歴史の推移には勝てず有子城の落城と共に消え去った。

 

その後、城主は木下昌利・ 青木勘兵衛・羽柴(豊臣)秀長らであったとの説があるが、天正十三年(一五 八五)には前野長康が城主となった。

 

長康は関白秀次の処刑に連座して、その 子長重と共に殺され、播磨の龍野から小出吉政が文禄四年(一五九五)に出石に 移されて五万三千石を領有した。

 

慶長九年(一六〇四)に和泉の岸和田城主小出秀政が死んで、吉政が岸和田城に移され、出石には吉政の子吉英が残された。

 

吉英が山麓に出石城を移すまでは、まだ有子城は山頂にあったと考えられる。

 

城山の頂上には本丸の跡として広さ四〇m×二四mの平地が、北と さ約四〇m、高さ三~四mの石塁で支えられ、数段下の西の丸跡の平地も二〇m×一六mの広さで、特に東側の石塁は長さ三七m、高さ四・三mと延びてもっとも規模の大きいものとなっている。

 

ちなみに西側の石塁は長さ一六m、高さ四・三mで、北側は二〇mで、高さは五・三mであり、西の丸の石塁の延長七十三 mにも及ぶ。

 

そのほか数か所に蔵屋敷・侍屋敷などの郭式城郭で、石塁は古式の荒々しい野面積みで、住居防禦系山城というべき形式 であった。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

 

永禄12年(1569年):羽柴秀吉によってそれまでの居城であった此隅山城が落城するも、山名祐豊は但馬から堺へ逃れ。その後、堺商人の力を借りて但馬に復帰する。

 

天正2年(1574):此隅山城に代わる新城として山名祐豊が築いたといわれる。

 

天正8年(1580年):再び織田軍の羽柴秀長によって攻められ有子山城は戦うことなく開城する。

 

天正13年(1585):前野長康が五万石で入封したが、関白豊臣秀次の処刑に連座して殺される。

 

文禄4年(1595)播磨国龍野から小出吉政が五万三千石で入封。

 

慶長9年(1604):小出吉英が山麓に出石城を築いて居城とし、山頂の有子山城は廃城となった。

※しばらくは詰城として使用されたが、一国一城令にて完全んい廃城となる。

 

城主家系図

城主石高

羽柴長秀は但馬七郡 一〇万五千余石と播磨二郡を 与えられた。

 

青木勘兵衛尉が 一万八千石を与えられて当城に配置される。

 

前野長康が五万石で入封。

 

小出吉政が五万三千石で入封。

 

所感

●此隅山城が石垣の城ではなく、有子山城が石垣の為、山名氏以降の豊臣家臣が改修に携わったと思われる。

 

●城の範囲は広く曲輪の作りも精巧。

 

●本丸から見える城下町は一見の価値あり。

 

●千畳敷という場所があり、居住スペースだと思われる。

 

関連URL

【兵庫県】此隅山城【豊岡市出石町宮内】

有子山城に来る前の居城。

 

参考URL

有子山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(有子山城)

西国の山城(有子山城)

 

歴代城主(ウッキペディアより)

 

参考文献

『豊岡市の城郭集成Ⅱ』

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/08/28

 

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