城データ
城名:正法寺城
標高:30m
比高:20m
築城年:南北朝時代か
城主:山名氏
場所:兵庫県豊岡市山王町
北緯:東経:35.541572/134.815958
攻城記
現在は日吉神社となっている。
この削平地が曲輪。
往時の姿はこの辺りからは想像できない。
本殿でこの部分が本丸か。
余湖図【正法寺城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【正法寺城】
城の概要
正法寺城は豊岡市山玉町の標高272mに所在する。
現在日吉神社が配られている。周辺市街地との比高は約23mある。
正法寺(城)が文献に初出するのは「伊達文書」である。
延元元年(1366) 6月北朝方の伊達真信らは、南朝方のひとつの拠点「木崎性法寺」を攻撃している(伊達真信軍忠状)。
この「性法寺」は「正法寺」のことであろう。
また、「蔭凉軒日録」によると、長享2年(1489)9月播磨攻めに失敗した山名政豊が居住していた所が「正法寺」であり、木崎城から18町余り隔たる所に所在するという。
そして政豊は、俊费を但馬守護に擁立しようとする国人達に離反され、木崎城包囲攻撃を受けている。
寛永年間(1624〜44)に著されたと思われる『豊岡細見抄」には、山王権現宮について、「今領主京極家の産宮とす。往古は此山真言宗正法寺という小寺あり、小田井神社の供僧なりしか、正中社領没収の後、寺坊荒廃して退展(退転)せり。
寛文年中京極家丹後田辺より御入国の後、の寺迹の鎮守を尊敬ありて、(中略)。今豊岡町の本居神とす。」と記されている。
『豊岡市の城郭集成Ⅰ』豊岡市教育委員会より引用。
正法寺跡
円山川の西岸、豊岡盆地を南北に二分する丘陵の北端 部にあった真言宗寺院。
延文元年(一三五六)一二月日付の 伊達真信軍忠状(伊達家文書)に「木崎性法寺」がみえ、当寺のことと思われる。
「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)九月二日条には、播州を放棄して帰国した但馬守護山名政豊が子俊豊をかつぐ国人に背かれ、「正法寺云寺」にいるとしている。
丘陵の現状も南北朝時代から戦国末期に社の神至る山城遺構を残している。
『兵庫県の地名』より一部引用。
城の歴史
延元元年(1366):北朝方の伊達真信らが、南朝方のひとつの拠点「木崎性法寺」を攻撃する。
長享2年(1488):播州を放棄して帰国した但馬守護山名政豊が子俊豊をかつぐ国人に背かれ、「正法寺云寺」にいたようだ。
所感
●南北朝時代にはすでにあったという。
●城として利用されたのは1400年代後半から1500年代前半か。
●現在は日吉神社となっている、江戸時代には山王権現宮となっている。
●神社部分ではなく、その後背部には曲輪と切岸部分や畝状堀切もあるようだが確認できず。
関連URL
参考URL
参考文献
『豊岡市の城郭集成Ⅰ』
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/08/22