城データ
城名:備後衆山砦(びんごすやまとりで)
標高:26m
比高:20m
築城年:室町時代か
城主:備後山内氏に関係と推測、また対面の鶴城(田結庄氏)の出城ともある。
場所:兵庫県豊岡市日撫字宮ノ下
北緯:東経:35.549118/134.830468
攻城記
城は正福寺の丘陵にある。
正福寺本堂。
大石りくの墓。
城域部分の突入。
加工されているが暗くて不明。
堀切っぽい。
削平地。
丘陵から麓を臨む。
位置関係
余湖図【備後衆山砦】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【備後衆山砦】
城の概要
備後衆山城は円山川支流の六方川右岸、日撫集落南側、北東から延びる尾根の中程標高約26mに立地する。
日撫谷を挟んで北側に鶴城が所在する。集落との比高は約22mを測る。城域は東西約70m、南北約90mを測る。
現在、主郭には稲荷社が祀られている。
城主については、「備後衆山」という城名から、備後国の山内氏が守備したものと推定されている(「兵庫県の地名【」平凡社)。
康正2年(1456)6月山内泰通は九日市で山名宗全から亡父跡の知行安堵を受け(山名持豊判物・山内泰通覚書文書」)、明応2年(1493)5月には山内通久が篠岡庄内篠岡長門守跡などを山名俊豊から恩給されている(山名俊豊判物「山内首藤家文書])。
しかし、戦国期の城主や城史に関する史料は不明である。
城は、昭和61年(1986)円山川河川改修工事に伴って発掘調査された。現在、主郭の一部と曲輸2、南側の堀切・堅堀などは消滅している。
報告書によれば、中世の出土遺物としては青白磁須恵質土器、土師質土器(灯明皿)などが出土している。
中でも、蓮弁紋をもつ中国製青磁碗は室町期後半とされている。
城主については備後衆が守備した可能性はあるが、位置的に鶴城との関係が強く、田結庄氏の「出城」と思われる。
城の縄張りは堀切・堅堀や畝状竪堀の存在から、戦国末期の様相が顕著である。
轟城主垣屋豊続と鶴城主田結庄是義が戦った、天正3年(1575)の野田合戦以降、鶴城と同様垣屋豊続によって、畝状竪堀による改修がなされたものであろう。
『豊岡市の城郭集成Ⅰ』豊岡市教育委員会より一部引用。
備後衆山砦跡 豊岡市日撫
円山川の支流六方川河口部東岸、北東から延びる丘陵 (標高二〇-五〇メートル)突端に立地し、日無谷を挟んで北 など 側の鶴城跡に対する。
鶴城は永享年中(一四二九-四一)但馬守護山名持豊が築き、被官田結庄氏の居城としたと伝え、当砦は鶴城の支城として位置付けられたものであろう。
康正二年(一四五六)六月一九日には備後国の被官山内泰通が九日市で備後守護を兼ねる山名持豊から亡父跡の知行安堵を受け山名持豊判物」「山内泰通覚書」山内首藤家文書)
明応二年(一四九三)五月一六日には山内通久が篠岡庄内篠岡長門守跡などを山名俊豊から恩給されている(「山名俊豊判物」同文書)など、備後衆山砦は山内氏が守備したものと推定することができる。
昭和六一年(一九八六)の河川改修に伴う発掘調査では、(岩本家文書)では土塁をもつ主郭と主郭南側の堀切および堀切上の橋がか り遺構が出土。
主郭から三方向に延びる尾根上には各々一、二の曲輪を配置し、主郭の西と南に深い堀切と竪堀 をうがち、北側斜面は三本の畝状豎堀で防御されている。
畝状竪堀は鶴城のものと同様であるところから、天正三年(一五七五)田結庄氏を滅ぼし(一一月二四日「八木豊信書状」吉川家文書)、鶴城を確保した垣屋豊続によって改修されたものとみられる。
『兵庫県の地名』より引用。
城の歴史
康正2年(1456):備後国の被官山内泰通が九日市で備後守護を兼ねる山名持豊から亡父跡の知行安堵を受ける。
明応2年(1493):山内通久が篠岡庄内篠岡長門守跡などを山名俊豊から恩給される。
天正3年(1575):野田合戦において垣屋豊続が鶴城を落城させる、出城であったと思われる備後衆山砦も垣屋氏に接収され同様の改修(畝状竪堀による改修)がなされたと思われる。
所感
●鶴城の出城だと考えられるが、但馬山名氏ではなく備後山名氏と縁のある山内氏に関係しているかもしれない。
●現在は正福寺の背後の山が城跡であるが、確かに山砦の様相を示している。
●田結庄氏と垣屋氏との戦の時にはこの城も使われたと考えられる。
関連URL
お隣になる鶴城。
参考URL
参考文献
『豊岡市の城郭集成Ⅰ』
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/08/22