城データ
城名:妙楽寺城
標高:71m
比高:70m
築城年:明徳元年(1390)以前
城主:山名氏
場所:兵庫県豊岡市妙楽寺字見手山
北緯:東経:35.534596/134.814586
攻城記
現在も妙楽寺がある。
妙楽寺本堂。
余湖図【妙楽寺城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【妙楽寺山城】
城の概要
妙楽寺城は妙楽寺集落西側、標高70mの見手山丘陵に所在し、集落との比高は約65m。
城域は、東西約400m、南北約600mにおよぶ大規模城郭である。
妙楽寺は高野山真言宗で、寺域から鎌倉期から室町期の経筒や密教法具(大錫杖頭・宝珠杵・火舎・銅鋺・台盟など計34点)、石造遺物(五輪塔・宝篋印塔)が出土している。
「古義真言宗本末牒」によれば、以前(中世)には寺中に12院(不動院・遍照院・観音院・極楽院・弥勒院・地蔵院・大悲院・中性院・大智院・大乗院・心地院・遍智院あったが、いずれも廃絶し、寛政3年(1791)段階で本坊薬師院のみとなっていたという。
妙楽寺城に関する文献は数少ないが、城は明徳の乱 (1391) に関連した山名一族の内られている。明徳元年(1390) 5月、妙楽寺城に立籠もる山名時熙(常熙)・勢が攻撃し、同年10月には妙楽寺城が陥落し時熙・氏幸らは敗走している(『「南山編年録』)。
また(天正7年カ)(1579)7月には、秀長の但馬進攻に備えるためか、山名氏政(有子山城主)が妙楽寺に対し「山下構塀三間」(有子山城下の構塀カ)の普請を申し付けている(山名氏政書状『妙楽寺文書)。
妙楽寺城跡 豊岡市炒楽寺見手山
妙楽寺集落西側の見手山丘陵(最高所は標高約七〇メート ル)に所在し、集落との比高は約六五メートル。
城域は東西約四〇〇メートル・南北約六〇〇メートルに及び、曲輪配置はちょうど谷部に位置する妙楽寺を北・西・南か ら取囲むような形になっている。
妙楽寺城は南北に延びる主尾根の鞍部(曲輪)を境にして、標高七〇メートルに位置する「北城」と標高六九メートルに位置する「南城」 に分けることができる。
北城の主郭は東西約二五メート・南北約一六〇メートルあるが、墓地の造成などによって改変されている。
主郭の北西側は宅地造成によって削り取られているが、北尾根に二段、南東尾根に一一段(最大四〇メ四〇メートル)の大規模な曲輪を構築している。
南城の主郭は小規模(一一×一〇メートル)であるが、主郭の北側に五段の曲輪、西側に一段の曲輪と小規模な堀切、東側に二段の曲輪、南側に五段の曲輪を構築している(南側は担馬文教府の建数によって大きく破壊されている)。
さらに但馬文教府の東側の三本の尾根には、一〇段ほどのかなりしっかりした曲輪(最大三〇×ニ五メートル)を配置している。
明徳の乱の前年の明徳元年(一三九〇)一〇月、山名の内紛のなかで、妙楽寺城に立籠る山名時・同氏幸を山名氏清・同満幸勢が攻め、妙楽寺城を陥落させている(南山編年録)。
また天正七年(一五七九)と推定される七月一一日、但馬守護山名氏政は妙楽寺に対し、「山下構塀之事、三間被申付候ハ、可為祝着候」という書状を差出している「山名氏政書状」東京大学史料編纂所影写本妙楽寺文書)。
以上から妙楽寺城は南北朝期から戦国末期まで城塞化していたことが判明し、また天正八年の羽柴長秀(秀長)の第二次但馬進攻を前にしての城構えをうかがわせる。
なお妙楽寺城は時義系山名氏の九日市在所の西側を固め(東側は円山川)、その縄張りが大規模であることを考え合せ ると、南北朝ー室町期における守護所の詰城の最有力候補となる。
『兵庫県の地名』より引用。
城の歴史
明徳元年(1390):宇名の内紛のなかで、妙楽寺城に立籠る山名時・同氏幸を山名氏清・同満幸勢が攻め、妙楽寺城を陥落させり。
天正7年カ(1579):豊臣秀長の但馬進攻に備えるために、山名氏政(有子山城主)が妙楽寺に対しの普請を申し付けてる。
所感
●城域は広大であるが、墓地や宅地などの造成で往時の姿はとどめえていない。
●現在でも妙楽寺があり長い年月この場所にあったと想像できる。
●寺の後背部に削平地があるらしい。
関連URL
山名氏の抗争時に使用された城。
参考URL
参考文献
『豊岡市の城郭集成Ⅰ』
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/08/22