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城データ

城名:豊岡城

別名:亀城

標高:48m

比高:40m

築城年:天正8年(1580)

城主:宮部氏、明石氏、杉原氏、京極氏

場所:兵庫県豊岡市京町

北緯:東経:35.539776/134.821003

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

現在は神武山公園となっている。

看板。

比高も低く登りやすい。

途中の削平地、城域かは不明。

現在は市の上水道の施設などがある。

本丸側面の曲輪。

本丸。

本丸からの風景。

本丸跡。

豊岡高校方面。

元禄時代の縄張図。

 

豊岡城

神武山(標高49m)の名は、明治5年(1873)の神武天皇遥拝所設置によるが、山容から亀城・亀山、城の所在から城山とも呼ばれる。

 

 

伝承では、15世紀中ごろ、九日市に守護所を置く但馬守護山名宗全がこの山に築城、被官垣屋氏に守らせたという。

 

戦国末期、垣屋氏が事実上の但馬実力者となるに及び、この城(当時は城崎城と呼んだ)は但馬支配の中心拠点となった。

 

天正8年(1580)、羽柴勢の但馬占領によって旗下宮部善祥房が入城、木下助兵衛尉、明石与四郎、福原右馬之助と続き慶長2年(1597)杉原長房に至った。

 

承応2年(1653)、杉原家断絶により城は破却されたと見られるが、本丸・萩の丸・笠の丸の他、天守台などの遺構が残された。

 

寛文8年(1668)、京極氏代に入ると、城山は城郭遺構を保持したまま陣屋及び城下町の象徴となった。

 

豊岡城こそは、豊岡市の中世・近世における歴史的原点である。

 

天守台跡。

萩の丸跡。

周辺地。

笠の丸跡。

 

広さある。

周辺地。

改変されており遺構は不明。

 

豊岡陣屋跡

現在は図書館になっている。

豊岡城麓にある屋敷跡。

 

余湖図【豊岡城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【豊岡城】

 

 

城の概要

豊岡城は円山川左岸、京町の南側、標高約49mの「神武山」に所在する。位置的には、豊岡盆地の西端にあたる。京町との比高は約42mを測る。城域は東西約430m、南北約160mを測る。

 

鎌倉時代の『但馬太田文」(弘安8年・1285)によると、豊岡町域は「長講堂領城崎庄七拾四丁六反」となっており、地頭は南部太郎次郎入道行蓮であった。

 

城崎庄は、旧豊岡町の佐野・九日市・戸牧・大磯・小尾崎岡野田.新屋敷.一日市.六地·下陰・ 中陰・上陰・高屋・正法寺を含む範囲であったという。

 

この城崎庄域に木崎城がいつごろ築城されたのかは、明らかではない。

 

「長享2年9月の「蔭凉軒日録」である。『蔭凉軒日録」によると、但馬守失敗して帰但した際、あくまで播磨進攻を主張する垣屋氏を筆頭とする26人の国人らが政豊を廃し、備後守護山名俊豊を擁立しようとして、政豊・田公肥後守の立籠る木崎城を包囲している。

 

また、「木崎城は田公新左衛門が築城した」とも記されている。

 

 

木崎城の所在地については、『豊岡市史・上巻』・『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』・『但馬の城』の中でも不明とされてきた。

 

『豊岡市史・上巻』では木崎城は「神武山から正法寺のあった山王山一帯」に所在したといい、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』では豊岡城と木崎城とを別扱いしている。

 

しかし、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』の中の木崎城の項には、「『柴田退治記』『太閤記』に「木崎城主木下助兵衛尉」の名が見える。

 

木下は羽柴秀吉の部将で、宮部善祥房のあとに豊岡城主となった人物である。

 

そうすれば、この木崎城は豊岡城を示すことになる。」として、豊岡城の前身が木崎城である可能性を指摘している。

 

平成4年(1992)春の豊岡城の調査で、主郭南側斜面に3本の堅堀(敵状竪堀)が確認された。

 

この就状竪堀は従来の曲輪や堀切で縄張りされた城郭を補強するために、天正の初めころ造られたものである。

 

したがって、この竪堀の発見によって、中世城郭の遺構を残す豊岡城の存在が明らかとなった。

 

前述の『柴田退治記』の記載と合わせて考えれば、豊岡城の前身は木崎城であったことが判明しよう。

 

天正3年(1575)の野田合戦(鶴城主田庄是義と轟城垣屋豊続との争い)以後、屋豊続の支配がおよんだものと推察され、木崎城も竹野轟城の支城網の中に組み込まれたものと思われる。

 

「豊岡城」の初見は、慶長13年(1608)の『杉原伯耆守の奉書』に「但馬国豊岡城主」と記されているという(『目で見る豊岡の文化史』)。しかし、『豊岡細見抄」に記す「宮部継潤地子免状写」(天正10年・1582には、「豊岡町」「豊岡中」 という名称が使用されている。したがって、羽柴秀長の第2次但馬進攻以後、豊岡城主となった宮部継潤によって「木崎(城)」が「豊岡(城)」と名称変更されたことは間違いなかろう。

 

豊岡城主は、宮部継潤の後、木下助兵衛尉(天正10年・1582、受封)、尾藤久右衛知定(天正12年1584、受封)、明石左近則実(天正14年·1586、受封)、福原右馬助直高(文禄4年·1595、受封)と続き、慶長2年(1597)には杉原伯者守長房が受封した。

 

杉原氏は、承応2年(1653)に断絶するまで続いた。

 

宮部氏から杉原氏までの時代(天正8年〜承応2年)には、豊岡城と居館がセットで存在し、居館は京極陣屋と同じ位置にあったものと思われる。

 

さて、豊岡城と「一国一城令」(元和元年・1615)との関係はどうであろうか。

 

『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』では、豊岡城の廃城を「承応2年杉原家断絶の時期」 としているが、元和の「一国一城令」に求めるのが妥当ではなかろうか。

 

承応2年(1653) から京極伊勢守高盛が田辺(舞鶴市)から入部する寛文8年(16に編入されているので、豊岡城はまったく機能していなかったであろう。

 

寛文8年での200年間は、豊岡藩は京極氏の支配するところとなったが、豊岡城そのものから許可されず、陣屋のみ使用された。

 

『豊岡市の城郭集成Ⅰ』豊岡市教育委員会より引用。

 

豊岡城

豊岡城は豊岡市中(もと城崎郡城崎郷)の神武山とよばれる丘陵地に構築されていた平山城で、京極家三万五千石の居城であった。

 

『但馬考』には地元の伝 として「清和天皇の時、安達弾正信輝と云うもの居たりし」と記され 「康正のころ(一四五五ー五七)山名宗全入道の居たるよし」と『続太平記』の 記録を伝えている。

 

長享二年(一四八八)九月、但馬守護の山名政豊が播磨国出兵に失敗して但馬に引き揚げたあと、「但馬のこと一国悉く垣屋(に味方し)たるにより、田公息、新左衛門(ひとり政豊に味方し)城を木崎に構えて居る」((『蔭涼軒日録』)の記述もみえるが、これをただちに豊岡城と結びつけることは 困難である。

 

しかし、天正八年までに、ここに何らかの砦があったものと考えられる。

 

 

天正八年、羽柴(豊臣)秀吉は但馬に攻め入り、同年五月十六日には出石の有子山城を攻略し、山名祐豊を滅ぼし、その子氏政を鳥取に敗走させた。

 

このあと、出石には青木勘兵衛、豊岡には宮部善祥房を置いた。

 

この宮部氏が豊岡城を構築したと伝えられる。

 

天正十年、秀吉は鳥取城を攻略し、宮部善祥房を鳥取城主に移した。

 

このあ と、豊岡城主は文禄四年(一五九五)までの間に、木下助兵衛重堅・尾藤久右衛 門知定・明石左近則実・福原右馬助道高と次々に交代した。

 

慶長二年(一五九七)には杉原伯耆守長房が肥前の臼杵城から入部し、長重・重元と杉原氏三代 の治績が続いた。

 

『豊岡誌』が「宮部善祥房その基を開き、その後、木下・尾藤・明石・福原・ 杉原の諸氏益々之を修し」と記述しているように、豊岡城は最終的には杉原長房によって、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の役までに完成したとみるべきであろう。

 

長房は関ケ原の役では西軍(石田三成方)に属し、丹波・但馬・因幡の諸国の城主らと共に丹後の田辺城を囲んだが、役後は妻の父浅野長政が東軍(徳 川家康方)に属していたので、その懇請によって罪を許され、大坂の陣におい て軍功を立てている。

 

杉原長房のあと、寛永六年(一六二九)に長重が襲封するが、『寛永武鑑』に よれば、この時代の知行高は二万七千石であった。

 

長重には子がなく、正保元年(一六四四)十二月に、甥の重元を養子として襲 封を許されるが、知行高は一万石となる。

 

この重元が早世して承応二年(一六五三)十月、杉原家は断絶した。

 

豊岡城は関ヶ原の役のあと、杉原家の半知の 時か、断絶の折かに廃城となったと推定される。

 

したがって寛文八年(一六六八)五月、京極伊勢守高盛が丹後の田辺城(京都府舞鶴市)から入部した時には城はなく、陣屋が残されていたのみであった。

 

京極家の知行高は享保十一年(一七二六)までは三万五千石であった。四代高寛に子がなく、早世し、弟高永が襲封を許された。が、この時、新知行高は一万五千石となった。

 

そして九代飛罪守高厚の代の明治二年(一八六九)六月に至 って版籍を奉還した。

 

豊岡城の遺構は、明治年間以降に破壊が繰り返され、現在、ほとんどみるべ ない。

 

しかし、『主図合契記』の「豊岡城図」と元禄十五年(一 に作製された「豊岡城下絵図」によって、その繩張りをかなり詳細にうかがうことができる。

 

『主図合契記』によると、山頂の本丸には西側に一段高く天守台がみられ、二 の丸といえるものは「はぎの丸」と名づけられ、西側には堀切を隔てて「笠の があった。

 

また「杉原家相続覚」によると、杉原氏の時代には に家老の青山彦左衛門がいたという。

 

しかし、『主図合契記』にも「豊岡城下絵図」にも、城内には建物は書かれておらず、東側にも梯郭式に六つの郭があ り、北東側の山下に藩主の館と藩庁としての会所があった。

 

さらに「豊岡城下 絵図」によると、これら城郭・館・会所を取り巻いて武家屋敷が配置され、武 家屋敷の外側は水堀や池になっていた。

 

また武家屋敷を挾ん で円山川沿いの南北約二畑にわたって町家が並び、内堀・外 堀(円山川)があって、広がりのある織田・豊臣時代の城下町 の姿をみることができる。

 

宮部善祥房は、この城下町を繁栄 させるために、地子(年貢)を免除し、商人の誘致を図った。

 

城の歴史

天正8年(1580):羽柴(豊臣)秀吉は但馬に攻め入り、同年五月十六日には出石の有子山城を攻略し、山名祐豊を滅ぼし、その子氏政を鳥取に敗走させる。

 

またこの時に城主を宮部善祥房にして豊岡城の改修を実施。

 

天正12年(1584)には尾藤知定、天正14年(1586)には明石則実、文禄4年(1595)には福原道高と次々と城主が替わった。

 

慶長2年(1597):杉原伯耆守長房が肥前の臼杵城から入部する、このころ豊岡城が完成する。

 

承応2年(1653):杉原家が断絶し、このころ廃城となる。

 

所感

●現在は豊岡市の水道施設が設置されており、遺構はほとんど残っていない。

 

●近世城郭であるが、石垣なども無く、戦国時代の山城の延長線上の城か。

 

●畝状竪堀が3条あるようだが、確認できなかった。

 

●本丸からの景色はよく、遠くまで眺望できる。

 

●麓には陣屋跡があり、江戸時代を通じてこの陣屋にて政務を司っていた。

 

関連URL

 

参考URL

豊岡城(ウッキペディア)

城郭放浪記(但馬豊岡城)

宮部継潤(ウッキペディア)

 

参考文献

『豊岡市の城郭集成Ⅰ』

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/08/21

 

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