城データ
城名:余勢城
標高:220m
比高:20m
築城年:1395年(応永2年)ころか
城主:多胡忠重もしくは多胡久秀 または福屋氏の可能性もある。
場所:島根県邑智郡邑南町大字中野
北緯:東経:34.9007729/132.4581623
攻城記
碑公園となっている。
家臣の沖弾正正藤という人物がいたらしい。
余勢城の矢竹。
三の丸?奥は二の丸?
大幅な改変で現状をとどめていない。
無数の石碑がある、独特の公園。
後世の改変か。
余勢城戰史
永録二年吉川元春の攻撃を受けてより時後二年攻防を繰返す。
同四年五月吉川小早川の連合軍鳥井ヶ段に陣し大 軍をもって総攻撃を開始した。
四代城主多胡正國騒ぎたる様子も無く之に応戦し八 月の末夜討をもって勝敗を決せんと闇に乗じ吉川本 陣に突入した。
吉川勢は不意を突かれ慌て騒ぎ同士討ちする等討死 する者武将児玉與八郎以下五百名に及び吉川勢は一 時攻城を中止して引あげるに至った。
同年十二月尼子攻めの一陣として毛利 吉川小早 川の連合軍は謀略をもって城方の重臣別所小三郎を 味方に入れ裏門より突入した。
城方は別所の裏切りにより一挙に戦況不利となり五 年一月一日終に落城多胡九十年の歴史は幕を閉じた。
石碑より。
周辺。
いろんな石碑がある。
中心部の向かう。
ここが本丸なのか不明。
麓の風景。
周辺。
位置関係
城の概要
余勢城は島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』には記載無。
余勢城
戦国期になると、この地は国人小笠原氏、次いで国人福屋氏の勢 力下に置かれたと推測される。
永禄四年(一五六一)一一月 福屋氏が毛利氏に反旗を翻したため、同年一二月初旬毛利元就勢は福屋勢の立籠る「中村要害」を攻め、激戦の 末これを落している(一二月一〇日「毛利隆元書状」閥閲録など)。
「中村要害」は当地の余勢城をさし、同月一一日の 毛利元就書状(同書)では「中之村」と記される。
のち当 地は吉川氏領となり、天正一五、六年(一五八七、八八)頃 の吉川広家領地付立(吉川家文書)には「弐百貫中村」と ある。
同一七年二月一五日の吉川広家判物(藩中諸家古文書 纂)にも「大内郡(邑智カ)中村之内五貫前」とみえる。
『島根県の地名』より一部抜粋。
城の歴史
文永年中(1264~74) 出雲郷地頭となって下向。
応永2年(1395):多胡越前守俊英は応仁の乱の戦功により中野の地を与えられ余勢城を築く。
永正5年(1508):多胡忠重は、尼子経久が願主となって出雲大社の造営に着手したとき、普請奉行となって工事にあたる。
永正16年(1520):出雲大社が完成。
天文9年(1540):毛利元就の吉田郡山城攻めに尼子側として参陣する。
天文12年(1543):鰐淵寺造営に就いて僧中が評定の上に造営の事僧中が無断に離山すること、山林の伐採を禁ずるとの晴久の掟を命じ、さらに、鰐淵寺領の掟を定め、寺領の陣夫、寺領百姓は下地を他所の人に売らない、寺領の百姓は武家奉公を禁ずる等の晴久の命を伝えている。
天文12年(1543):多胡辰敬は弟の正国に余勢城を任せて、自分は岩山城(大田市)に移る。
天文23年(1554):富田城内で連歌師宗養を招いて尼子主従が連歌会を催したときに、辰敬は「ゆくと来と契や花に深見草」を詠じたことが「多胡文書」に伝わる。
弘治3年(1557):多胡辰敬・正国兄弟らは小笠原氏の守る井原雲井城を攻略とある。
永禄元年(1558):尼子晴久は毛利元就の包囲を受けた石見温湯城の小笠原長雄を援助するために大軍を派遣した。
この軍に辰敬も参陣した。しかし、この援軍は成功せず、温湯城は毛利氏の攻撃によって長雄は降伏し、毛利家臣となった。
永禄2年(1559):吉川元春らの毛利勢により余勢城は攻撃を受けるが多胡正国や家老の沖弾正正藤がこれをよく防ぐ。
永禄4年(1561):多胡勢が敵陣に夜討ちをかけ、吉川側は児玉興三郎をはじめ500人の討死を出したと城跡にある石碑には記されている。
永禄5年(1562):1月ついに余勢城は落城落城する。
※多胡正国の家臣、別所小三郎宗晴が毛利に寝返り正国の子秀光を殺害して吉川軍を城内にいれる。
武家家伝(多胡氏)から一部引用。
城主家系図
所感
●現在公園化しており、主な部分は全て後世の改変と考えられる。
●詳細に調べていけば、若干の遺構は見いだせると思われる。
●城主は多胡氏とされているが不明な点も多く、古文書からは福屋氏の可能性もある。
●公園となっているが、石碑などが無数にあり、違和感がある。
●多胡氏は後世に娘が亀井氏に嫁ぎ藩主を生んでいる、また代々家老職を務めている。
関連URL
参考URL
石見の城(余勢城)
参考文献
『島根県の地名』
公開日2021/08/09