城データ

城名:向山城

別名:大廻城(おおさこじょう、だいさこじょう)

標高:43m

比高:30m

築城年:不明

城主:塩冶氏

場所:島根県出雲市上塩冶町向山

北緯:東経:35.357505/132.766405

向山城はここ

 

 

攻城記

比高は高くない。

麓の看板。

 

大廻城
この上の小高い山が大廻城跡です。おもな郭が3か所あって、土塁などが残っています。

 

今から約800年前、源平の戦いで宇治川の先陣争いで有名になった佐々木高綱の弟・義清が、鎌倉幕府より、出雲国の守護識を命ぜられました。

 

その孫・頼泰が弘安年間(1280~)に築いたのが、大廻城だと伝えられています。

 

頼泰は塩冶郷に守護所を移し、地名を氏とし「塩冶頼泰」と名乗りました。

 

それから約50年後、南北朝の争乱の時、塩冶判官高貞(頼泰の孫:筆者注)が活躍したことは世に有名です。城跡南麓には高貞を弔った頓覚寺(とんかくじ)跡があり、上塩冶築山には高貞社跡があります。

 

高貞は、江戸時代の劇作家・竹田出雲の作「仮名手本忠臣蔵」の浅野内匠頭のモデルとなった人です。

 

平成1510月 塩冶クラブ

 

 

まずは東に回り主郭東側の大堀切から登っていく。

本丸に到着。

二の丸に行く手前の堀切。

二の丸(そこそこ広さもある)

二の丸から三の丸へ行く手前。

三の丸(細長い)

土塁跡。

矢竹。

近景。

 

余湖図【大廻城、向山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

館跡が、南側の民家部分に想定できる。

 

『出雲・上塩冶地域を中心とする埋蔵文化財調査報告』(1980年)の報告でも、城の図に民家をわざわざ書き入れて同様の見解をとる。

 

ただし、主要な各郭は面積も広く平坦なので、郭内にもかなりの建物があったと思われる。

 

中世塩冶氏の中心はこのあたりだったと思われるが、周辺が無造作に開発されており憂慮される。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

 

大廻城跡 出雲市上塩冶町

出雲国神門郡塩冶地域にあった城跡。

 

塩冶氏の居城と考えられる。

 

地元では「だいさこじょう」ともよぶ。

 

当城に関する明確な史料は存在しないが、江戸中期以降に 編まれた「雲陽誌」の塩治の条に「古城山 塩治判官高 貞の居城なり」とあること、「雲陽古城山実記」に「上塩冶、大廻城、判官以後代々」とあることなどから、中世 の塩冶地域には該当する城があったと推測される。

 

また 「雲陽軍実記」に「尼子伊予守経久公の三男に宮内少輔興久とて、短慮我慢にして強勇不仁之人あり、分知三千貫 を宛行れ、塩治城にぞ置玉ふ」とみえる塩冶城もこの大廻城であった可能性が高い。

 

城跡の所在地については、 これまで出雲市上塩冶町の向山・半分・大井谷および同 市今市町の平家ヶ丸と諸説あったが、明治九年(一八七六)  作成の第四六区神門郡上塩冶村の村作道長幅取調帳(出雲 市役所蔵)に「字上沢ノ内間府川ョリ大迫本谷マテ」「中谷 ョリ大廻井手マテ」「字上ノ内判官井手ョリ間府川迄」とみえ、今日では向山に比定されることが多い。

 

向山城跡 はJR山陰本線出雲市駅から南東六〇〇メートルに位置 し、標高四〇メートル・比高三〇メートル程度の低い場 所に築かれている。

 

西は平地が広がり、南と北は丘陵の 間にできた谷となっている。

 

丘陵尾根は西端で鉤の手状に曲っており、郭はそのまま地形にしたがって加工され ている。

 

郭は三ヵ所あり、主郭は一辺三〇メートルほど の方形の郭である。

 

郭の配置が単純であること、平地と の比高が低いことなどから、館の防御を目的とした初期 的な城と推測されている。

 

『島根県の地名』より引用。

 

向山城

向山城は国鉄出雲市駅の東南約一㎞の台地上にあったが、一ノ谷公園と隣接 しており、標高は四〇mで眺望がよく、西・北側は平地に臨み、他は丘陵に囲まれている。

 

当城は半分城などと同様に分布調査によって最近発見されたもので、文献上 も不明で、伝承も伝わっていない。

 

しかし、最近の研究では、出雲守護職であ った塩冶(佐々木)氏の本拠地「塩冶郷」に位置しており、また、南北朝時代に 非業の死を遂げた塩冶判官高貞の居城とされる大廻城の「大廻」という地名が、 明治九年に作成された上塩冶村の『村作道長幅取調帳』によれば当城の東方三 の所にあり、これらの点より当城が大廻城に該当するものされている。

 

遺構としては、「く」の字状の尾根の上に一辺三〇mで一部に土塁をもつ立 2郭と、ほぼ同規模の二か所の郭があり、そのほか周囲には、堀切一か所と小規 模な段が五か所配されている。

 

郭一か所あたりの規模はかなり広いが、その構造は単純であり、古い時代の様相を示していると考えられる。

 

また、南側の中 腹や麓には広い平地が認められ、館跡ではないかと推定されている。

 

当城は出雲平野の中央部の防禦と、塩冶高貞の館が存在したといわれる塩冶築山地域の防備という二つの機能を合わせもったものと考えられる。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

城の歴史

不明。

 

城主家系図

所感

●城の比高や規模としては少し小さいが初期の形態若しくは居館としては十分だと思う。

 

●塩冶関連の城は複数にわたっており(半分城や塩冶神社など)どこが本拠か分からないが、時代時代によって本拠も変更があったのかもしれない。

 

●城というより居館っぽいがそれでも比高が30mあり上からみると塩冶の街並みが分かるのではと思う。

 

●島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』では向山城とある。

 

関連URL

【 島根県】塩冶神社境内遺跡【出雲市上塩冶町】

塩冶氏縁の地。

 

参考URL

城郭放浪記(出雲向山城)

西国の山城(大廻城)

全国遺跡報告一覧(塩冶判官館跡)

塩冶氏(ウッキペディア)

塩冶高貞(ウッキペディア)

塩冶興久(ウッキペディア)

武家家伝(塩冶氏)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『島根県の地名』

『日本城郭大系』14

 

公開日2021/07/29

 

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