城データ
城名:丸山城
別名:円山城
標高:480m
比高:250m
築城年:天正13年(1585)小笠原長旌によって築かれたと伝わる。
城主:小笠原長旌
場所:島根県邑智郡川本町大字三原
北緯:東経:34.980721/132.406486
攻城記
丸山城全景。
麓までは車で来れる。
攻城開始、本丸まではすぐ。
石垣も多くある。
沢山の曲輪があるのが特徴。
西の丸に行く前の虎口。
西の丸。
西の丸に居住スペースがあったらしい。
西の丸石垣、大きい。
三の丸。
三の丸から本丸へ。
石垣は低いが周囲を囲っている。
いよいよ本丸へ。
本丸へ到着。
三角点。
川本町指定文化財
丸山城跡
丸山城は、川本町大字三原と田窪にまたがる標高482mの円山の頂上に位置する。
城跡は、本丸と西の丸を中心に東・南・北面に小規模な曲輪をもつ中世山城であり、川本町を拠点に安濃・邇摩の両郡と邑智・那賀郡の一部、鹿足・美濃を含む八村に及ぶ領域を統治した小笠原氏にとって、当地における最後の山城である。
この城は石見地方の中世山城として特異な築城構想をもった山城で、発掘調査によると、曲輪は石垣により構築されていて、本丸(主郭)や西の丸(二之郭)からは礎石建物跡が多数確認されている。
西の丸からはカマド跡が確認され、あわせて日常生活陶器類が見つかり、これらは文献史料などから、城主が西の丸に居住していたことが判明した。
川本町教育委員会
本丸は広い。
石垣跡。
本丸からの田園風景。
最初の看板のあったところまでおりてから、別の郭に向う(8曲輪)
8曲輪からは西の丸に行く道がある
余湖図【丸山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
基本的に総石垣の城郭である。
主郭の周囲に石塁を巡らすが、虎回の部分だけ石垣を高く積み、他は背丈程の高さしかない。
また、横矢を射るための折りも、櫓台等の防御施設も認められない。
発掘調査で複数の礎石が検出された。
築城は、毛利氏によって温湯城を追われた小笠原氏によるものとされる。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
丸山城跡 川本町三原
中世の小笠原氏の居城。
木谷川西岸にそびえる円山(四八〇メートル)の山頂に築かれ、谷を挟んだ南側に現桜江町の甘南備寺山がある。
小笠原氏の居城となった経緯は、 広汲寺縁起(全長寺文書)などによると以下のとおり。
永禄 二年(一五五九)八月温湯籠城の末に毛利氏に降った小笠原長雄は江川以南の所領を明渡し、和睦後に江川以北の弥山(甘南備寺山)へいったん退いた。
この直後、毛利氏の九州攻めに従い、その軍功により丸山(円山)に在城し、残存した江川以北の所領を支配したとされる。
おそらく小笠原氏領のうち江川以北の主要部分を占める三原郷を見下ろす丸山に、温湯籠城以前から城郭が存在していたの であろう。
天正一九年(一五九一)小笠原氏が出雲国神門郡 大島(現出雲市)に移封となり、丸山城も廃城となったと考えられる(一二月吉日「三原神四郎書下」武明八幡宮文書、同二 〇年四月一七日「小笠原長判物」平田家文書)。
城の規模は広大で、東西に二つの大門をもち、釣塀・釣櫓などは敵襲 の場合に切って落す仕掛になっており、さらに東西に備 場・切立・切通し・出櫓などが配置された山城であったという(丸山伝記)。
現在、山上には石塁を四方に壁状にめぐらせ、建物の礎石を残す遺構が残る。山下には荘厳寺・武明八幡宮など小笠原氏と関係の深い寺社や、古市・市など城下集落の形成を示す地名も残る
『島根県の地名』より引用。
丸山城
丸山城は、三原地区の武明八幡宮から南西の方向にそびえ、頂上に数本の大木が立っている丸山にあった。
現在、南佐木と三原との中間の古市部落から、上り道が二の丸下方の削平地まで通じている。
全く変化のない山で、堅堀や空堀もなく、本丸は頂上の削平 地で三〇mほどの矩形の石組が周囲にめぐらされ、東北の正面には三段ばかり の石段がみられる。
そこから北側に約二〇m下った位置に二の丸があるが、もともと整備されていなかったようで、各所に石が露頭している。
その下方にも 細長い削平地が数段ある。
小笠原長旌は盛時の小笠原家に家運を挽回しようと、天正十一年(一五八三)、 湯谷八幡宮に立願して成功を祈り同十三年完成させた。
ところが同十九年毛利 輝元が広島に築城し、長旌は病身のため弟元枝が輝元に従った。
しかし、たまたま小笠原氏に家督問題が起こり、その混乱が輝元の心証を害して、文禄元年 (一五九二)、元枝の子長親が朝鮮の役に従軍して留守の間に小笠原氏は出雲神西に移封を命ぜられた。
その時、ほとんどの家臣は残され、重立った一族のみが移って行ったといわれている。
このことについて、『丸山伝記』が川越・大貫方面からの攻撃を受けて落城したと記しているため、従来、丸山城は毛利氏の攻撃によって落城したものと 伝えられてきたが、天正二十年の時点において毛利氏が狭小な山間の当地に軍を起こすことはあり得ず、丸山城攻めの伝承は天文・弘治(一五三二ー五八)の 頃、福屋氏と小笠原氏とが川越方面で抗争をくり返していた時の伝承が、誤っ て後年の丸山城に結び付けられたものと思われる。
なお、谷戸の土居城という記録(『石見誌』)」があるが、それは谷戸部落で三 谷川が屈曲する地点に形成された狭小な沖積地の小高い所に残っている古墓からみて、単なる小笠原氏一族の土居であったものと思われる。
『日本城郭大系』14より引用
城の歴史
天正11年(1583):丸山城を築城開始する。
天正13年(1585):丸山城完成する。
天正19年(1591):出雲国神門郡大島に移動する(この時廃城となる)
城主家系図
城主石高
小笠原弾正(元枝)
540.274石
【内訳】
340.148 長門 阿武
200.126 出雲 神門
後世小笠原氏は出雲に転封される。
所感
●城に行く方法は三原方面に進み、丸山森林公園わんぱくの森方面に進む、そこから公園ではなく田窪方面にすすみ、そこからつづら折りの道をくねくねと上がっていく。
●ただし、道はアスファルトであるが長年放置されており、また草が生えて車にススキなどが擦る。
●本丸からの形式は非常に良い。
●丸山森林公園わんぱくの森も閉園しておりこちらからは侵入不可です。
※ちょうど閉園の準備をしていた。
●城が出来たのが戦国末期なので築城技術の一番ピークだったと思われ石垣がふんだんに使われている。
●この地域の遺構では戦国末期の山城として近隣でも類を見ない総石垣であり、価値が高い。
●地元の整備がないのが残念な山城。
関連URL
小笠原氏初期の城。
小笠原氏最盛期の城。
参考URL
参考文献
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩諸家系譜』
『島根県の地名』
『日本城郭大系』14
『萩藩閥閲録』
『小笠原十五代伝記』
『石州白銀浪漫』
公開日2021/07/25