城データ
城名:温湯城(ぬくじょう)
別名:温井城、温井要害、河本城
標高:219m
比高:180m
築城年:南北朝期か
城主:小笠原氏
場所:島根県邑智郡川本町大字川本
北緯:東経:34.980256/132.502799
攻城記
登城口
攻城開始。
寺屋敷と呼ばれる曲輪。
馬洗場(バセンバ)と呼ばれる曲輪。
周辺部。
本丸より一段下がった曲輪。
温湯城の矢竹。
本丸跡。
井戸跡っぽい。
本丸から麓を臨む。
二の丸。
周辺部。
二の丸櫓台。
周辺部。
麓の蔵屋敷といわれる曲輪を見る。(居住空間か)
位置関係
余湖図【温湯城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
①郭(主郭)は2段から成り、北側に虎国が認められる。
②郭の東端の高まりは櫓台と思われる。尾根筋は櫓台と連続竪堀によって遮断している。石垣が築かれている。
③郭は「バセンバ」と伝えられているが、居住空間の可能性がある。「テラヤシキ」と伝えられている。
④郭から「クラヤシキ」と伝えられる。
⑤郭にかけて連続堀切群と連続竪堀群が築かれている。この城は一時石見銀山を領した小笠原氏の居城とされる。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
温湯城 川本町川本
矢谷川と会下川の合流点に位置する標高二〇〇メートルの山上に築かれた中世の城。
温井城・温井要中 記され、河本城とも称されたようである。
小笠原氏の本 城で、のち毛利氏の手に移る。南北朝期の築城伝承はあ るが、正確な築城年代は不明である。
小笠原友之進家譜 (閥閲録)の小笠原長氏の項に「石州温井城築」とみえ、小笠原弥右衛門家譜(同書)の小笠原長氏の項には「始而石州温湯之城を構、此時宮将軍御取合有、将軍方として軍 功有之」と記されるが、いずれも根拠不明である。
ただし小笠原氏が河本郷の地頭として明確に現れるのは南北朝期であることから(建武四年七月二六日「小笠原貞宗代桑原 家兼軍忠状」庵原家文書など)、築城をこの時期とすることも 可能であろう。
永和二年(一三七六)七月二四日の細川頼之感状(同文書)によると、「石州河本城衆」としての武田修 理亮の軍忠が賞せられているが、河本城は当城のことと 推定される。
弘治二年(一五五六)四月四日の小笠原長雄判物写(打荻英 一氏所蔵文書)に「先年温井籠城」とみえ、当時石見への 侵入を本格化させた毛利氏とその先鋒にあった佐波氏・ 福屋氏に対抗して、小笠原氏が籠城戦を試みたものと推 測される。
同年四月二七日の小笠原長勝判物写(坂根家文 書)にも福屋上総介が「川本温井山」に奇襲をかけようとしたことが記される。
小笠原氏は永禄二年(一五五九)三月 たけ 一日に竹(現邑智町)で毛利勢と合戦を交えたのを最後に温湯城に拠って籠城戦を開始したと推測されるが(同年三月 一〇日「小笠原長雄感状写」清水米太郎氏所蔵文書、同年三月一 〇日「尼子晴久書状」林愛吉氏所蔵文書)、尼子氏の援軍を迎 えることなく同年八月二三、四日頃に降伏・開城した八 月二二日「益田全忠書状」俣賀文書、八月二五日「毛利元就書状」 小笠原長恒氏所蔵文書など)。
その結果、小笠原氏は江川以 みはら 南の所領を毛利氏に明け渡して三原方面へ退くことになり、温湯城も毛利氏の手に渡った。
同三年二月一七日毛 利氏は吉川元春に「川本温井要害」を預け「毛利元就・同 隆元連署状」吉川家文書)、以後は吉川氏の在番衆が置かれたと思われる。
当城は矢谷川と会下川の合流する三角地点を大手とし て四方ほとんど断崖に近い急斜面に囲まれた峻険な要害である。
合流点に面する断崖上に倉屋敷があり、そこか東方急斜面上に寺屋敷・的場、八合目正面の東西稜線に馬洗場という削平地がある。
頂上の本丸台地は前半部がやや高く井戸の痕跡もある。
後半部は急斜して裏側 のかなり低い二の丸のある台地に接する。
この台地は搦 手の守備陣地と考えられ、稜線沿いに会下山に連続する。
温湯城攻めのとき吉川元春は会下山に布陣したという。
本丸と二の丸との間に急斜面から西側に急斜する稜線の 先端に空堀がある。
土居は倉屋敷に対する山寄りにあり前面を流れる矢谷川が堀の代用となっていた。
畑野の城山(三九〇・八メートル)山頂にあった赤城(赤山城)は、温湯城 より以前、小笠原長胤が拠点として築いたと伝える。
しかし交通が不便であることから、温湯城築城後は同城の 支城の一つとなった。
永禄元年温湯城の開城に先立って 落城したという。本丸・空堀などの跡と殿居・土居・調練場の地名が残る。
『島根県の地名』より引用。
城の歴史
【初代】
小笠原長親 1281~1313
元寇の際に石見国に駐留して守る、その功により石見国邑智郡を過領される。
また石見国国人益田兼時の娘の美夜姫と結婚、その引き出物として川本周辺の所領を送られ、川本を領有する。
三島大明神か勧請する。
弓ケ峰神社を勧請する。
【二代目】
小笠原家長 1314~1333
永仁年間(1293~1298)に村之郷周辺を知行する(ここを本拠とする)
建武の新政のころの争乱で討死とある(丸山伝記)
【三代目】
小笠原長胤 1334~1346
南北朝の動乱期において北朝につき南朝方の楠木判官(楠木代官・福富氏)を討取る功により赤城と温湯城の地域を賜りここに城を築く。
興国年間(1340~1346)から正平年間(1346~1369)に温湯城を築城する おそらく完成したのは四代目の長氏頃。
【四代目】
小笠原長氏 1346~1383
1348年:南朝の三隅氏居城である三隅城を北朝軍の一員として攻めるが戦果を上げられず。
1350年:足利直冬が反乱 佐波顕連は三隅氏、福屋氏、吉見氏らと共に反尊氏の兵をあげた、これを討伐するために佐波の青杉城を攻略する。
結果佐波顕連は討死する。
この功により佐波の領地であった都賀、都賀行、銅が丸鉱山を尊氏から賜る。
その後も北朝方として活躍、三原、長谷の地も領有する事となる。
1354年:南朝方の足利直冬が勢力を立て直し三隅氏、益田氏、福屋氏、吉見氏らを引連れて温湯城を攻略するが堅牢の為落城できなかった。
軍記物ではその後和議を図り、小笠原氏も南朝に下るが1355年に京にて直冬軍が敗北して北朝方に戻った。
1359年:南朝方であった邑智郡阿須那の高橋氏が北朝方の出羽氏の二つ山城を攻略、援軍として動くが福屋氏に邪魔をされて間に合わず 二つ山城は落城する
【五代目】
小笠原長義 1384~1408
1394年:本拠を村之郷から川本に移した 息子らを各地に配して所領強化に努めた。
【六代目】
小笠原長教 1409~1414
1413年:江津市川戸の土屋氏が妻の実家である都治家の乗っ取りを画策、幕府が土屋氏征伐を行い小笠原氏もこれに従う。
結果落城し降伏した、長教はこの戦いの功により幕府より日和、大貫の地を知行された。
1409年と1414年に甘南備寺に寺領を寄進する(祈願寺)
【七代目】
小笠原長性 1414~1443
息子らをそれぞれ分領に配して所領の強化に努める。
【八代目】
小笠原長直 1443~1461
朝鮮貿易を活発に行う。
【九代目】
小笠原長弘 1462~1489
大内氏に従い各地を転戦する。
1460年 足利義政が畠山義就討伐を命じる、長弘も大内氏の従い河内の畠山義就討伐に出陣する。
佐波氏との抗争が激化する。
【十代目】
小笠原長正 1490~1505
1491年:湯谷長江寺を創建。
1504年:湯谷八幡宮を勧請する。
妻は宍戸姓の女とある 安芸甲田の五龍山城 宍戸氏。
【十一代目】
小笠原長定 1506~1525
【十二代目】
小笠原長隆 1525~1542
1511年:船岡山の戦いに従軍する。
石見国の守護に任命される。
1537年:尼子氏が侵攻して小笠原氏は尼子氏に従った。
1540年:尼子氏に従い毛利の吉田郡山城を攻撃(途中次男の長晴が討死する)
1541年:石見銀山を支配下に置く。
【十三代目】
小笠原長徳 1542~1547
1542年 銀山を支配した、また尼子氏に従軍して勝利に貢献、褒美として、大家、三原、下都治、延里、佐摩、白杯、井原を知行された。
【十四代目】
小笠原長雄 1547~1569
1548年:3月銀山に入部して大いに賑わう。
1557年:毛利元就に井原を攻略される。
1558年:毛利元就に村之郷を攻略されると徐々に包囲される。
1559年:このころから温湯城を包囲される、尼子軍も援軍にきたが、江の川の洪水にて援軍出来ぬまま退却し、結果毛利の軍門に下る
温湯城を出る。
【十五代目】
小笠原長旌 1569~1595
円山城を築く。
出雲国神西軍大島に移動させられる。
妻は小早川隆景の息女との記載もあるがおそらく養女か?輝元公御判物之御書に三原御局とあるので小早川氏の縁のものと思われる。
城主家系図
城主石高
小笠原弾正(元枝)
540.274石
【内訳】
340.148 長門 阿武
200.126 出雲 神門
後世小笠原氏は出雲に転封される。
所感
●小笠原200年の居城だけあって城の遺構もしっかりしている。
●バセンバ(馬洗場)のところが居住空間ともある。
●二の丸には櫓台があり会下山の方を観察できる。
●川本町の有名な城であるが看板などはない(民有地な為か?)
関連URL
初期の城。
戦国末期の城
参考URL
参考文献
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩諸家系譜』
『島根県の地名』
『萩藩閥閲録』
『小笠原十五代伝記』
『石州白銀浪漫』
公開日2021/07/25