城データ
城名:塩冶神社境内遺跡
標高:33m
比高:30m
築城年:鎌倉末期から室町時代初期か
城主:塩冶氏と伝わる
場所:島根県出雲市上塩冶町
北緯:東経:35.352322/132.764427
攻城記
塩冶神社登口
すぐに到着できる比高。
本殿。
立派な神社である。
一番最高所の部分。
比高30m余りもでこの位になる。
出雲隠岐守護塩冶判官高貞公顕彰の碑
塩冶判官高貞公は鎌倉末期から南北朝の激動する世相の中を、出雲の守護として「天長、地久、国土安泰」を念じ懸命に生きようとした我が郷土の誇るべき武将である。
世に言う元弘の乱(1331年)以来、後醍醐天皇の親政を救け、京都還幸の先達を務め建武の中興を支えるにない手となった。
その後室町幕府の要職にあったが、いわれなき讒訴(ざんそ)にあい、京都を出奔、最愛の妻西台の局をも失い、自らも馬上で妻子の後を追った。人間味豊かな武将である。
後世、高貞公夫妻の名は歌舞伎の名作「仮名手本忠臣蔵」によって脚色され、民衆の人気の的となった。
本年高貞公没後650年に当たり、全国各地の塩冶氏、高貞公の末裔、南條氏、地名を氏とした塩冶郷の人達と語らい古墓を整備し御霊を慰め子孫の繁栄を願い、その生き方をしのび、ここに後世に伝えるものである。
以下略
石碑より
神社から降りた場所(東)ここが館のあった場所なのかもしれない。
削平地。
麓を臨む。
周辺部。
余湖図【塩冶神社境内遺跡】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
城郭としての伝承は無いが、塩冶郷を一望する立地にある。
塩冶神社境内で改変されているが、壁の普請は十分である。最高所の普請は不十分であり、古い時代の城郭とも考えられる。塩谷判官館の参考地である。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
城主家系図
所感
●実際にここが館跡かどうかは不明であるが、規模や造りからしてその可能性も否定出来ない。
●当時、最高所部分からの眺めは遠くまで眺望出来ていると思われ、支配するには好立地であったと思われる。
●平時の館跡で、戦になれば近隣の山城に退避したと考えられる。
関連URL
塩冶氏初期の居城だと考えられる。
毛利氏が改修した可能性もある。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『島根県の地名』
『日本城郭大系』14
公開日2021/07/11