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城データ

城名:戸倉城

別名:十蔵城

標高:318m

比高:200m

築城年:室町時代か

城主:古志氏

場所:島根県出雲市稗原戸倉

北緯:東経:35.299639/132.786480

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

 

戸倉城跡由来

ポツンと孤立した急峻なこの要害山は、標高300メートル。山麓(現在地)から約200メートルの山である。

 

山頂と東下の尾根の平地が、古城の名残である。 この戸倉城は、古書に「十蔵城」「十倉城」とも書かれ、戦国の頃、かなり有力な城であった。

 

いつ誰の築城か明らかでないが、初は尼子の武将・古志氏の出城であり、後は毛利氏の将が占拠したらしいが、城郭廃止の時も不明である。

 

(稗原まちづくり事業推進協議会)

 

攻城開始。

戸倉城矢竹。

人工的な石。

墓石にも見える。

堀切。

堀切上にある平削地(馬屋の段といわれる)

さらに登っていくと大きな曲輪がある。

山頂に到着。

本丸。

本丸から見た宍道湖方面。

二の丸。

更に進む。

先端部分、物見には好立地。

非常に眺望が良い。

周辺部。

戸倉城全景。

 

城の概要

戸倉城

稗原町と所原町の境にある独立した急酸な山が要書山で、その頂上に意城があった。

 

標高三一四メー トル、山麓から二〇〇メートルもある急較天験な石山である。

 

出雲国守護の塩治氏から分家して古志郷の領主となった古志氏は、明徳四年(一三九三)稗原を領地とした。

 

頂上平地に曲輪が五つあり、馬屋の段にも二つと三つの 曲輪が堀切を隔てて残る。

 

居館は東側の山麓にあった。

 

「雲陽誌」に「天正五年古志宗信七ヶ村を領して十蔵城に 居住せらる」と記す。

 

『島根県の地名』より引用。

 

戸倉城

戸倉城は出雲平野から神戸川に沿って五、六㎞入った出雲市碑原町戸倉の独立した急峻な山にあったが、西には古代の土椋烽に比定されている大袋山が隣接している。

 

標高は約三〇〇mで、山頂からは神戸川の流域はもとより飯石都方面までも見渡すことができる。

 

また、神戸川に近く、三刀屋から平野部へ出る最短距離の経路上にもあり、交通上の要衝であった。

 

当城は元亀・天正年間(一五七〇―九二)の尼子氏が再挙をはかる戦いにおい て使用されたといわれ、『毛利家文書』や『萩落閥関録』にも「十倉」として 散見されるが、近郷の神社の棟札に古志氏一族の名が多く残されているところ から、城主は古志氏であったともいわれている。

 

遺構としては、山頂に小規模な郭が認められるのみであるが、地山自体が岩 山で水の便もなく平坦地にも乏しいので、当城は戦闘時の短期間、砦としての 機能を果たしていたと推定される。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

城の歴史

明徳四年(1393):稗原を領地とする。

 

文正2年(1467):古志為信が神門郡稲瀬頼庄安原を日御埼神社に寄進する。

 

文明15年(1483):主家である山名政豊が播磨に進駐し、古志為信も備後の兵を率いてこれに従う。

 

文明16年(1484):幕命により出雲守護代・尼子経久の追放が決定、古志為信は幕命を奉じ、三沢・三刀屋・朝山・広田・桜井・塩冶などの国人たちとともに富田城を包囲、経久を追放する。

 

文明19年(1487):播磨の戦況が不利に傾き、山名氏の播磨での拠点・坂本城が陥落の危機に陥るが、この防衛戦に古志為信が奮戦、しかし乱戦の中、父・美作守久信など一族が討死にする。

 

永正9年(1512):古志為信が備後国松永郷に侵攻し大内軍と戦う(大内義興が管領代となって京都におりその隙を突く)、しかし毛利興元が古志の居城大場山城に攻めて落城する。

 

天文6年(1537):古志宗信が比布智神社「歌仙三十六枚」を寄進。

 

天文9年(1540):古志重信は尼子軍として吉田郡山城を攻める。

 

天文9年(1540):古志吉信が近江国竹生島明神遷宮に際し、尼子晴久の命て寄付奉納が行われることになり『竹生島奉賀帖』にも「古志左京亮」の名があらわれてている。

 

天文24年(1555):古志宗信が比布智神社を造立する。

 

永禄元年(1558):古志重信が尼子晴久に従い小笠原長雄の温湯城、本城常光の山吹城の救援に赴く。

 

永禄5年(1562):このころ毛利の軍門に下る。

 

永禄13年(1570):尼子再興軍につき毛利に反旗を翻すが結局は出雲大社両国造から降伏を勧められやむなく毛利に降った。このころ栗栖城から戸倉城へ移動する。

 

天正19年(1591):このころ古志から備後御調に所領を変更され出雲から離れる。

 

慶長5年(1600年):関ヶ原の後帰農する。

 

城主家系図

城主石高

1591年頃の石高

古志新十郎(豊永) 500.024 備後 恵蘇

 

古志因幡守(重信) 200.196 備後 御調

 

所感

●城の遺構は数カ所に分かれている一カ所目は標高200m位のところにある堀切とその上の削平地(数段の削平地がある)

 

●上記削平地には何かしらの墓っぽいものが祀られていた。

 

●その次は小郭があり250m位のところへある程度大きな郭がある、最後に山頂に主郭、二の丸などが見られる。

 

●山頂には5つの郭があるみたいだがそんなにあるとは思えなかった。

 

●山頂から見る景色は非常によく晴れている日などは遠く宍道湖付近もはっきりと見えると思う。

 

関連URL

古志氏初期の城

【島根県】栗栖城【出雲市古志町】

古志氏の主な居城

 

参考URL

城郭放浪記(出雲戸倉城)

武家家伝(古志氏)

古志重信(みやざこ郷土史調査室)

 

 

参考文献

『島根県の地名』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『日本城郭大系』14

公開日2021/07/11

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