城データ

城名:三隅城

別名:高城(正式名称はこちら)

標高:362m

比高:200m

築城年:南北時代頃か

城主:三隅氏

場所:島根県浜田市三隅町三隅

北緯:東経:34.776167/131.981472

三隅城はここ

 

 

攻城記

9合目まで車でいける。

三隅城矢竹。

進んでいく。

曲輪の跡に到着するが、遺構はあんまり確認できず。

本丸部分。

中央には岩がある。

恐らくここが真ん中では。

景色は最高。

本丸の先にある曲輪、途中で断念。

龍雲寺(三隅氏縁の寺)

立派な山門。

本堂。

本堂裏の庭園(石見国はこのような庭園が多い、益田市も雪舟庭園がある)

しっかりと整備されて気持ちいい。

 

 

 

余湖図【高城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

三隅氏の居城である。昭和58(1983)の大水害で斜面各所が崩れ落ちている。

登山道と水害の崖崩れのために損壊した郭や竪堀がありそうだ。

 

主郭を中心に小さな削平地が見られるのは激しい攻城戦があったという伝承と一致する。

 

堀切と竪堀で区画された中心部の外側に古い三隅城の遺構が残っていると推定される。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

 

三隅高城跡 現三隅町芦谷

高城山(三六二一メートル)に築かれた中世の山城。

 

三角とも記され、単に三隅城・高城とも称される。

 

寛喜元年 (一ニ二九)益田兼高の次男兼信が分家して三隅氏を称した 際に築かれたと伝える(三隅町誌)。

 

高城山山頂には中丸・ 東丸・西丸の本塁跡が残る。

 

南東面の井野側が大手口で、 山腹部に大手門・番所・軍用井・殿釣井·御殿場·武家 邸の跡などとされる遺構があり、東丸への登城道が通じる。

 

また西丸の西方台地上には的場跡がある。

 

北西面三 うまぶれ 隅市街地側が搦手口で、馬触坂を隔てた台地上には出城 の鐘ノ尾、今城の砦跡がある。

 

これらの遺構は数期にわ たって構築されたものと考えられる。

 

第一の画期は南北 朝期で、石見国の南朝勢力の拠点として激戦の舞台とな った。三隅氏は井村家、次いで黒沢家・鳥屋尾家を分家 させ、当城周辺の城に配置し、さらに勢力圏の境界にも 大多和外城・矢原城・古和城、木東城(現弥栄村)などを築き、一族・重臣を配した(同書)。

 

暦応四年(一三四二)石見守護上野兼は安芸守護武田氏 の来援を得て南朝方惣大将新田義氏、三隅支族井村氏の 拠る小石見城(現浜田市)、周布氏の周布城(現同上)を陥落させ、翌年二月二一日に当城に向かい、大多和外城・鳥屋尾城を落城させたが、本城である当城は落ちなかった ようである(康永元年六月二三日「吉川辰熊丸実経代須藤景成軍 忠状」吉川家文書など)。

 

その後、上野頼兼ら足利勢は康永 二年(一三四三七月から一一月までと、貞和二年(一三四 六)六月、同四年三月から四月にかけて、さらに同年八月 と度々当城を攻撃し、赤松尾・藁谷などでも合戦があった(貞和二年七月日「吉川経明軍忠状」同文書など)。

 

さらに観 応の擾乱によって幕府から離反した足利直冬の勢力が石見に伸張すると三隅氏はこれに呼応した。

 

観応元年(一三五〇)八月に直冬党討伐のため高師泰が石見に下向し、 「石見国中ニ、三十二箇所有ケル城共、皆聞落シテ、今ハ 只三角入道が籠タル三隅城一ゾ残ケル」という状況にな った。

 

師泰は当城を包囲して兵糧攻めにしたが落ちず、 翌二年一月、足利直義の京都進撃の報により足利尊氏か らの帰還命令を受けて退却した(以上「太平記」巻二八三角入 道謀牧事など)。

 

同年一月一〇日、足利直冬は三隅城を守 った吉川光経の軍忠を賞している「足利直冬御教書」吉川家 文書)。

 

永享三年(一四三一大内盛見が敗死したのち甥の持 世が家督を継いだが、翌年これを不満とする持世の弟持盛が大友氏と手を結び合戦となったため、持世は当城に 逃れている(満済准后日記」同四年二月二九日条)。

 

大永五年(一五二五)一二月五日、三隅氏は石見に侵入し た尼子経久に応じたが、大内義興に攻められて落城し、 以後当城は益田氏の支配下に入った(島根県史・三隅町誌)。

 

益田氏も、天文二〇年(五五一)大内義隆に反旗を翻した 陶晴賢との姻族関係によって毛利氏との間に対立が生じ た。

 

同二四年益田藤兼は毛利元就との戦いに備え、三隅領内針藻島の砦の修築や当城の守備を命じている(二月一日「益田藤兼書状」閥閱錄)。

 

弘治三年(一五五七)益田藤兼 は毛利方の吉川元春に降伏し、以後毛利氏に従った。

 

元 亀元年(一五七〇)一月二八日、三隅兼忠が毛利氏に攻めら れて落城したと伝える(「三浦家系図」「竜雲寺系図」三隅町誌

 

『島根県の地名』より引用。

 

城の歴史

安貞3年(1229):三隅兼信が築城する。

 

南北朝時代 南朝方として各地を転戦。

 

正中3年(1326):南北朝の内乱石見全域に及ぶ 三隅兼連は七尾城を攻める。

 

暦応5年(1342):北朝方の上野頼兼は三隅城に攻め寄せたが撃退。

 

観応元年(1350):高師泰が三隅城を包囲するが落城に至らず 翌年には包囲を解き帰る。

※因みにこの戦に備後国の小奴可亀山城城主の奴可源吾も参陣している。

 

奴可源吾
観応元年(1350)石州の三隅入道、足利直冬朝臣に従い三隅城に籠城す。
足利将軍尊氏卿より退治すべしと、高越後守師泰を大将として中国の勢 師泰が令に従うべき旨命せられる。
師泰、石州に発向して中国の勢を招き、先、佐波善四郎が青杉、丸屋、鼓が崎の三城を攻む。
時に三吉一揆の選兵二十七人を以って鼓が崎の城を落とす。その一人なり。

 

観応3年(1352):三隅兼知が男山八幡で討死。

 

文和3年(1355):三隅兼連が足利直冬に従い上洛し東坂本で討死。

 

天文21年(1552):陶晴賢が益田藤兼と結び三隅城を攻め落とした(不利を悟り開城する)

 

※その後三隅氏は尼子方につき毛利氏に敵対する(この頃には三隅城を奪取していたのかもしれない)

 

永禄13年(1570):その後尼子再興軍に従うが結局吉川勢に攻められ降伏する。

 

 

城主家系図

 

城主石高

天正19年1591年当時の知行

三隅清右衛門 30.196石 周防 都濃

(元久か)

三隅与市   23.765石 長門 阿武

三隅新太郎  21.702石 長門 阿武

三隅木工丞  15.751石 永田 阿武

 

注:元久は始め新太郎を名乗りその後、清右衛門、作右衛門を名乗る。

 

所感

●城域は広大であるが藪化でほとんど分からない。

 

●車で9合目までいけるのであればもう少しいろんな郭が分かるといい。

 

●本丸からの風景は絶景で山城目的でなくてもいいと思われる。

 

●山中に龍雲寺があるがこんな山の中にこれだけの寺院を建てる三隅氏の財力が偲ばれる。

関連URL

【島根県】周布城【浜田市周布町】

同族の周布氏居城。

【島根県】七尾城・三宅土居【益田市七尾町・三宅町】

本流の益田氏居城。

 

参考URL

城郭放浪記(石見三隅城)

西国の山城(三隅城1)

西国の山城(三隅城2)

西国の山城(三隅城3)

武家家伝(三隅氏)

三隅兼連(ウッキペディア)

三隅氏歴代当主(陰陽武将列伝)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『島根県の地名』

『萩藩諸家系譜』

『日本城郭大系』14

『萩藩閥閲録』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2021/07/10

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