城データ
城名:周布城
別名:鳶巣城
標高:80m
比高:70m
築城年:文永年間(1264~75)
城主:周布氏
場所:島根県浜田市周布城
北緯:東経:34.855215/132.029063
攻城記
鳶巣城跡と聖徳寺
前方の鳶巣山にある城跡は、鎌倉時代前期(1228年)浜田の豪族益田兼定がこの地に砦を設け、以後周布氏累代の居城として、室町時代後期(1570年)毛利氏に攻められ落城するまでの約300年間、浜田西部を支配する拠点となっていた。
また、山麓には周布氏の善提所曹洞宗聖徳寺があり、(の本堂には江戸時代後期(1866年)の長州との戦いの弾痕が残っている。
“昭和44年11月3日指定
浜田市指定史跡鳶巣城跡
鳶巣山は、別名要害山ともいい、城砦は、尼子の月山城を思わせるものがあって、防備に自然の地形をよく利用し、工夫を凝らしている。
この付近の平地に城下町ができていたことは、土地名等により想像できる。
文永年間(鎌倉時代)浜田西部の豪族・益田兼定が地頭職となり、鳶巣山に築城し、以後周布氏の居城となり、元亀元年(1570)周布氏が毛利氏に攻められて落城するまで、約300年間、浜田西部の一帯を支配する拠点となっていた。
また鎌倉時代、幕府が蒙古襲来に備えた石見沿岸の防御18城の一つである。
昭和51年3月25日建立浜田市教育委員会“
周布城全景。
攻城開始。
周布城矢竹。
堀切。
本丸南の曲輪。
本丸南曲輪の土塁。
本丸西の小曲輪。
本丸。
木があり見通しは良くない。
本丸北の小曲輪。
本丸北西の曲輪。
周辺部。
降りてきて田園風景を望む。
当時はここまで海であった。
中世推定海岸線。
聖徳寺(周布氏菩提寺)
周布氏歴代墓。
余湖図【周布城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
周布氏の居城として知られる。主郭は最高所の櫓台状に削り込まれた地と考えられる。主郭の周囲は郭が取り巻くが、下位の郭との段差はいずれも低い。
この南側から西側にかけては急峻な地形のため西南の尾根筋に堀切を2本築くのみであるが、やや緩やかな地形である東側の尾根筋から北西側にかけては重点的な普請がなされている。
具体的には、東側の尾根筋に対して壁を削り込んだ堀切を設け、尾根上を掃射する位置に土塁を築いて防御を固めている。
堀切の北方は、再び地形が緩やかになるためここに連続竪堀を築いている。
また、水溜兼用とも考えられる空堀も築かれており苦心の跡がうかがえる。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
鳶巣城跡(現浜田市周布町)
周布川下流に面する鳶巣山に築かれた国人領主周布氏 の居城。
周布城とも称される。西麓には周布一族の墓と伝えられる宝篋印塔を祀る聖徳寺がある。
標高八二・二メートルで、本丸・二の丸・三の丸のほか太鼓楼や多くの 郭が残り、東西に空堀・土塁・畝形阻塞などもみられる。
暦応五年(一三四二六月一八日の逸見大阿代子息有朝軍忠 状写(小早川家文書)に周布城とみえ、前年七月に足利方の 勢力に合流した逸見有朝らは、翌五年二月福屋城から小 ふく や 石見城へ向かい、一七日に左近将監兼氏の籠る当城を攻 撃して降参させ、翌一八日にも当城を攻撃している。
当 城に籠っていた左近将監兼氏は周布家四代惣領の兼宗の子と思われる。
兼氏は貞和三年(三四七)に子供のなかっ た弟兼長から家督を譲られている(同年二月五日「周布兼長 譲状」閥閲録)。
なお周布氏は康永元年(三四二)にも北朝 の内田致景らの軍勢が木束・永安(現弥栄村)を攻撃した時に降参している(同二年二月日「内田致景軍忠状写」内田家文 書)。
室町期以降当城は大内氏・毛利氏の傘下にあったと みられ、慶長五年(六〇〇)の関ヶ原の合戦後、毛利氏に 従って周布氏が長州に移り、廃城になったとみられる。
『島根県の地名』より引用。
周布城
周布城は、浜田市周布町の東南隅にある一〇〇m足らずの鳶巣山にあったが、 地元の人は鳶巣城と呼んでいる。
周布氏初代の御神本兼定は益田兼季の次男で、 安貞二年(一二二八)に所領を受けている。
鳶巣山は東から続いている高野丘陵 部に位置し、西に周布川が流れ、北は一望のもとに水田地帯を眺殺 ことができる地にあった。
大手口は麓の周布氏の菩提寺聖徳寺の南側で、そこ から蛇行する急坂を上ると約五〇mで太鼓楼と呼ぶ広場に出る。
さらに急坂を上っていくと、三の丸・二の丸・本丸の跡と伝えられている削平地に達する。
付近に「殿様の手洗水」「姫の鏡ヶ池」と伝えられる窪地があり、近年まで庭 園の松の名残という二本松・天狗松の老松がそびえていたが、虫害のため枯死した。
搦手は東南の千畳敷の高台に続く部分で、幅約四〇mの谷で隔てられている。 山麓には現在も、周布氏の墓と伝えられる宝篋印塔や札場・犬馬場・研屋敷の地名が残っている。
南北朝の頃になると、四代兼宗は一族を率いて南朝方として三隅兼連らと共 に各地に転戦した。
しかし六代兼氏の代には、南朝・北朝の間を時に応じて転 々として所領の保持に汲々としている。
なお、応永三十二年(一四二五)の難民 送還に始まった朝鮮交易でも、文安四年(一四四七)には受図書人として『李朝実録』の中に周布和兼の名が挙げられている。
室町時代には大内氏に属したが、益田・三隅・福屋氏らとの間で抗争を続け ている。
永禄十二年(一五六九)、三隅隆繁は城主元兼の留守をねらって周布晴氏を誘って大陣平に反毛利の兵を挙げたが敗れ、晴氏は当城へ退いて防戦に努 めたが、三宅備中守俊行の内応もあって一族郎党三八人が割腹して果て落城した。
十五代元盛は文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵の際には吉川広家に属して出陣 し、晋州で討死している。
跡を継いだ長次は姓を杉岡と改めている。 慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦ののち、杉岡(周布)長次は毛利氏に従って 長州へ退転した。
『吉田物語』の著者杉岡就房や幕末の長州藩士周布政之助は、 いずれも周布氏の末裔である。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
安貞2年(1228):益田兼季の次男である兼定が周布の地頭職を賜る。
文永年間(1264~1275年) 周布兼定によって鳶巣城が築城される。
南北朝期 南方に与し総領家である益田氏を同じく庶流の三隅氏とともに攻める。
室町時代は大内氏に従っていたが戦国時代に毛利に攻められ家臣となる。
天正6年(1578):周布元兼が吉川家臣として尼子の上月城を攻城中に討死。 享年33歳。
慶長2年(1597):周布元盛が朝鮮の役にて渡海 討死 享年26歳
城主家系図
城主石高
天正19年(1591年)9月25日付の毛利氏重臣8名連署の書状によると、周布氏の所領は石見国那賀郡の井村郷594石4斗7升3合、本郷長浜146石5斗9升3合、長見村87石9斗7升7合、大麻山麓170石9斗5升7合の合計1000石と記されている。
『萩藩閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第215号より。
所感
●はじめは小さな山城と思っていたが実はかなり規模の大きな城であった。
●周布氏からは幕末に周布政之助が出る。
※長岡長次の五男である就房(杉岡権之助)の子孫。
●今でこそ海岸線から数百メートル奥まっているが中世当時はここが海岸線の近くであった。
●中世の周布氏は朝鮮との貿易も活発に行い富の蓄積をしていた
関連URL
本家益田氏の居城。
参考URL
参考文献
『島根県の地名』
『日本城郭大系』
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『萩藩閥閲録』
『萩藩諸家系譜』
公開日2021/06/25