城データ

城名:七尾城

別名:益田城

標高:120m

比高:120m

築城年:鎌倉時代

城主:益田氏

場所:島根県益田市七尾町

北緯:東経:34.672151/131.863860

七尾城はここ

 

 

攻城記

七尾城模型。

 

国指定史跡

益田氏城館跡 七尾城跡 指定 平成十六年九月三十日

七尾城は中世四〇〇年間にわたり西石見に勢力を誇った益田氏歴代の居城でした。

 

この城は七尾山全体に築かれており、北 方を流れる益田川に向かって開く東西二つ の丘陵を中心に大小四〇あまりの曲輪(平らな区画)を設けた県下屈指の堅城でした。

 

現在でも、曲輪や敵の侵入を防ぐ堀切(尾 根を断ち切った空堀)、土塁、馬釣井とよ ばれる石積みの井戸跡が残り、当時の姿を 良くとどめています。

 

南北朝時代にはすでに築城され、延元元 年(一三三六)に南朝方の三隅軍が「北尾崎之木戸」に攻め寄せた記録が益田家文書 に残っています。

 

発掘調査の結果、戦国時代末期には、毛利氏の攻撃に備えて大改修され、城の中心 部には礎石建物が建ち、益田氏の当主とそ の家臣が城内に居住していたことが明らかになりました。

 

慶長五年(一六〇〇)、益田二〇代元祥が、関ヶ原の戦に敗れた毛利氏の家老と して長門国須佐に移ると七尾城は廃城とな りました。

 

平成十五年七月

益田市教育委員会

 

 

2つの尾根に築かれた山城。

攻城スタート。

途中の景色、益田市市街地一望。

 

国指定遺跡  益田氏城館跡 七尾城跡

七尾城は、中世の有力武士団益田氏が本拠とした山城です。全長は600mで、西側には畝状竪掘群を備えて防御を固めています。

 

南北朝時代の初期にはすでに築城され、関ヶ原の戦いの後に廃城となりましたが、大手門は移築されて医光寺総門として現存しています。

 

発掘調査の結果、本丸、二の段を中心とした主郭部分で、櫓門や主殿、会所、倉庫などの礎石建物や庭園跡が発見されました。

 

土器、陶磁器の大半は16世紀第3四半期のもので、出土した大量のかわらけ(土器の皿)は、城内で酒宴を伴う儀式が行われていたことを物語っています。

 

天文20年(1551)の陶晴賢の挙兵に関わった益田藤兼が、毛利氏との緊張が高まる中で七尾城を大改修して居住し、天文11年(1583)の子の元祥とともに下城して再び三宅御土居に居を移したという益田家文書等の記述が、遺構と遺物の両面から確かめられました。

 

城と館がセットで残る貴重な例ろして、さらに、中国地方の歴史を考える上で重要な遺跡として、益田氏館の三宅御土居跡とともに国史跡に指定されました。

 

平成22年10月 益田市教育委員会

石垣跡。

細い道を進んでいく。

竪堀か。

西尾根曲輪群を攻めていく。

 

七尾城跡西尾根曲輪群

中世の豪族益田氏が築いた七尾城は、主に三つの細長い尾根を利用しでかれています。

 

このうち住吉神社の背後から北に 伸びる西屋機には大小二十以上の曲輪(平坦地)が残っていま す。

 

大手の谷を登りきった位置には厩の段があり、堀切を隔てた 北側には、宝暦三年、(一七五三)に太鼓の胴が発見されたとい う太鼓の段があります。

 

西尾根の中で最も高くかつ最大の広さをもつ千畳敷は防護上重要な曲輪で建物もあったと推定されます。

 

西尾根の北端にば尾崎丸と呼ばれる出丸があり、山裾にあった大手口の北 尾崎木戸は南北朝時代の延元年(一三三六)に三隅氏に襲撃さ益田方の武将が戦死しましたが、これが七尾 における唯一の戦いです。

 

七尾城は改修を重ねて現存する規模に発展し、関ヶ原の戦いの後に廃城に なりましたが、西尾根の曲輪群は城の中でも古くから築かれていた部分と考えられています。

 

平成十五年三月

益田市教育委員会

 

太鼓の段。

だいぶん高くなってきた。

どんどん進んでいく(尾根先に進む)

削平地が尾根に多くある。

尾崎丸。

ここで唯一戦が起こった。

土塁跡。

千畳郭

厩の壇。

釣井の壇。

 

国指定史跡

益田氏城館跡  七尾城跡大手の帯曲輪

指定平成十六年九月三十日

 

七尾城跡はこの付近から尾根が西側と東側にY字状に 分かれ北向きに谷が開いています。

 

七尾城の大手はこの谷部と考えられ、谷あいには家臣団の屋敷もあったと推 定されます。

 

1の段西側の斜面の中腹にあり、大手道を見下る 所に位置する帯曲輪(平らな区画)では、発掘調査の結 おび 果、長辺二十二m(十一間)×短辺五m(二間半)の礎 石建物跡が完全な状態で発見されました。

 

この建物は遺物の量が少なかったことから、日常的に居 住する建物ではなく倉庫の役 割が推定されますが、城の中 心部に到達する大手の側面に 建っていることから防御的な 性格も兼ね備えた建物であっ たと考えられます。

 

平成十七年三月

益田市教育委員会

 

大手の帯曲輪。

二の丸。

二の丸土塁。

周辺部。

 

七尾城跡本丸

 

中世の豪族益田氏が築いた七尾城は、全長が六百mに及ぶ大 規模な山城です。

 

城の最高部に位置し、城下を一望できる本丸は、標高 十mで、南側は堀切と土塁で守られています。

 

本丸に接して、 約一m低い二の段があり、北側に堀切があります。この本丸と 二の段が七尾城の主郭部でした。

 

平成四年度からの発掘調査によって、本丸北端では瓦葺きの 櫓門、二の段北端では二棟の建物の礎石列と庭園跡、二の段西斜面の帯曲輪では五m×二十二mの長大な建物跡が発見されました。

 

さらに、中国や朝鮮からの輸入陶磁 器や土師質土器(かわらけ)など、十 六世紀中頃から後半にかけての遺物が 多量に出土しました。

 

この成果は、益田氏十九代藤兼が七尾城を改修し、自らも城内に隠居したという益田家文書の記述を裏付け、戦国時代末期の七尾城は、合戦時の砦か ら領主の居城へと大きく変貌していた ことが明らかになりました。

 

平成十五年三月益田市教育委員会

 

本丸。

本丸土塁。

物見台。

本丸からの眺め。

本丸から下って更に進むと堀切がある。

周辺部、畝状竪堀か。

空堀。

今度は東曲輪群にすすんでいく。

曲輪は広い、屋敷跡があってもおかしくはない。

周辺部。

瓦の残骸。

東曲輪群の先端部。

七尾城遠景。

 

余湖図【七尾城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

①郭の南端の土塁は破壊された櫓台である。この櫓台と深い堀切、そして③郭東側に築かれた連続竪堀群によって尾根伝いを遮断している。

 

連続竪堀群は北西の「艮の出丸」にも築かれている。②郭の北端にも櫓台が築かれているが直下の堀切は堀底道として使用されていた可能性が高い。

 

近年の調査により多くの礎石や瓦片、カワラケ片等が発見されている。この城は、益田氏の本拠で、毛利氏にしたがって長州須佐に移るまで機能していた。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

 

七尾城跡現益田市七尾町

中世益田氏の居城跡。益田城ともいう。益田川が平野 に広がる最後の挟部に張出した長い尾根に築かれる。

 

城は南北に延びるおもに三つの尾根上に築かれ、最も高い だん 本丸を中心に、二の・太鼓の既や千畳敷など大小四〇あまりの曲輪があり、要所には堀切や土塁・枡形虎口・ 畝状空堀群などを設けて防御を固めている。

 

大手は二つ の尾根に挟まれた、益田川に面する北向きの谷間と考えれ、これを登り切った厩の段近くに馬釣井とよばれる 石積みの井戸跡が残る。

 

西側の尾根先端には通称尾崎丸とよばれる出丸があり、その真下と思われる大手口は延 元元年(一三三六)南朝方三隅軍の攻撃を受けた。

 

同年七月 二六日の三隅兼茂軍忠状(閥閲録)によると、三隅兼知に率 いられた三隅軍は、益田兼行・同舎弟三郎・乙吉十郎以 下数千騎の軍勢が立籠る益田城の「北尾崎木戸」を攻め、 益田方の部将大森代大進房の首を討取ったという。

 

永和 二年(一三七六)閏七月八日の室町将軍家御教書(俣賀文書)によれば、足利義満は俣賀新三郎に「於石州益田城致忠節之条、尤以神妙也」と伝えている。

 

これは同年四月に石見国守護職を解任された大内弘世と益田氏が緊密な関係 にあったところから、幕府の命を受けた俣賀氏が大内弘 世と結ぶ益田氏を攻撃したものと推測される。

 

次いで康暦元年(一三七九)から始まった大内義弘と弘世・満弘との 対立(康暦の内戦)に際しては、大内義弘が周布氏・永安氏などとともに、度々弘世方の益田氏を攻撃しようと計画 したが、結局は実行されないままに終わった。

 

永徳元年 (一三八一)と推定される年未詳六月九日の大内氏老臣連署 書状(益田家文書)によると「就益田発向事、今月中色々可 打入候、今度者差寄七尾城、三計可被取候」「益田・同遠 田辺、不残城々被成料所候」とあり、義弘は直接七尾城 とおだ を攻め落し、それを含む益田・遠田周辺の城をすべて大 式の直轄領(料所)に組込む予定であったことが知られる。

 

益田城が一度史料に表れるのは、益田兼見の死 の二年後、明徳四年(一三九三)一二月二七日の益田城衆中 宛の大内氏奉行人連署奉書(同文書)で、益田地頭職がすべ て返付されることになったとして、まずはその替所を去 渡すよう命ぜられている。

 

ここにみえる益田城衆中とは、 益田城に詰めている者の意味で、恒常的にここに居住し ていたわけではない。益田氏もまたこの当時、平時は三宅御土居に住居を構えており、益田城(七尾城)は合戦のた めの詰城として機能していた。

 

近年の発掘調査によると、山頂本丸跡の北端で四×一〇メートルの長方形の瓦葺と考えられる礎石建物跡(楼門状の建物あろう)が確認され、また一六世紀中頃から後半 にかけての中国製白磁や染付片が多数出土し、この時期 益田氏は三宅御土居から七尾城に住居を移していたと推定される。

 

戦国末期における戦闘の激化に対応するもの であった。一六世紀中頃には七尾城の麓と三宅御士居を 結ぶ地域に城下町も形成され、大いに賑わったと推測されている。

 

この城下町は三宅御土居と七尾城を結ぶ道、 および章手・顧念寺と妙義寺を結ぶ道、この直角に交差する二つの道を基軸に計画され、現在も上市・下市な どの地名が残る町人の町を取込むことにより成立したと考えられている。

 

現在七尾城跡への登り口とされている 道は、本来は手口であったのが、城下町の成立に伴い 大手道としての機能をもったのであろう。

 

かつての大手道には多数の家臣団が住居を構えていたと考えられ、現在も多数の削平された平地が確認される。

 

関ヶ原合戦の のち益田氏が長門国須佐(現山口県須佐町)に移住したのに 伴い廃城となり、城下町はあとに残された町人たちが中 心となって商業の町へと変質を遂げ、現在に至る。

 

『島根県の地名』より引用。

 

七尾城

七尾城の築城年代については、江戸時代に発刊された『石州覚書』『石陽行 慢録』『石見由来記』は建久四年(一一九三)三月の築城としており、『益田市 」はこの説により建久四年としている。

 

しかし、中世の山城で築城が明確なものはほとんどなく、それが学界の定説でもあり、前記の文書も参考資料の域を出ないものと思われる。

 

その点、『益田家史料』にも築城年代を明示した文書は見当たらず、『萩藩閥関録』巻一の「越中守全鼎入道」の項にも「藤兼事石州七尾之城に数代住居仕候」とあるのみである。

 

よって、『石見由来記』『増野悟氏文書』『史料綜覧』巻五などの参考資料を はじめ各種の伝承を勘案すると、築城年代は十三世紀の中葉、益田氏の当城在 城は約三百年とみるのが妥当と思われる。

 

それをさらにしぽって考えれば、文 永の役(文永七年1一二七〇)から弘安の役(弘安四年1一二八一)を経て、元の 世祖が征東省を廃止した正応四年(一二九一)から北条兼時が鎮西警固の指揮の ため西下した永仁元年(一二九三)までの間の約二十年間と推定される。

 

その当時の益田家の当主は兼時とみられるが、兼時は当時、石見守護の職にあったと思われ、恐らく弟の兼政に命じて、今日わずかに残る西の尾根の 掘削工事や、椎山山麓の岩盤を崩して益田川の流れを現在みるように変えて外堀の役割を果たすようにするなど、実際の築城作業に主として当たらせたものと思われる。

 

兼時自身は守護として石見沿岸の豪族を督励して沿岸警備の城砦 の築造に当たる一方で、七尾城の築城をも監督したのではないかと考えられる。

 

七尾城の修築について明らかなのは、弘治二年(一五五六)の益田藤兼の代の修造である。

 

この時、七尾城は、陶晴賢に味方した福屋兼正・益田藤兼とそれ を援護する尼子軍を征討しようとする毛利勢の攻撃を受け、安芸吉田から石見 に侵入した吉川元春の率いる毛利勢はまず福屋兼正を降し、尼子勢を大森銀山山吹城に破り、毛利勢の別働隊は南方より美濃郡に進出し、津和野城主吉見正 頼も美濃郡西部よりしだいに迫り、七尾城はまさに包囲されようとしていたのである。

 

そこで、藤兼は益田氏の命運をかけたこの一戦に備えるため、当城の 修築を急いだのである。 すなわち、藤兼は各郭の修理をはじめ各所に櫓を新設し、糧食を貯え、武器 を整え、堀を浚渫して深くし、武者走りを補修するなど、全力をあげて修築に あたったといわれ、現在の当城の遺構は、恐らくこの時のものであろうといわれている。

 

しかし、戦いは、結局、吉川元春の勧告によって藤兼は毛 門に降り、実際の戦闘は行なわれなかった。 その後、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦に敗れた益田元祥は毛利輝元の家老として長門の須佐に移り、約三百年、益田氏の拠城として謳われた七尾城も 廃城となった。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

 

三宅土居居館跡

 

 

 

 

 

博物館の模型。

 

土塁跡。

当時発掘最中であった。

 

戦後すぐの三宅土居居館跡。

 

概 要
益田川が大きく蛇行して谷あいから平野部に流れこんで西流するあたりの右岸、周囲と比較して微高地となっている松龍山泉光寺境内地一帯に存在する中世豪族、益田氏の居館跡である。

 

益田氏11代、兼見が応安元年(1369)以後の数年のうちに築いたとされ、慶長5年(1600)20代、元祥が、長門の須佐に移るまで居館として存続した。

 

遺跡の現況としては、居館跡のほぼ中央に泉光寺の本堂と庫裏があり、東西には大規模な土塁の跡を認めることができる。居館跡は土塁を合む東西の長さが約180mを測る大規模なものと推定される。

 

近年の発掘調査によって、居館周囲の堀の存在や土塁等各種遺構の良好な遺存状況、時期、規模、構造、性格が徐々に明らかになりつつある。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

益田三宅御土井居館

大谷土居屋敷にあったと思われる益田氏の居館が応安元年三月十六日、火災 て全焼した。

 

益田兼見は大谷の地が狭隆で交通も不便であったから、堅固 で広大な居館を七尾城にも近くて便利なこの三宅の地に定めてすでに進めていた矢先に、この火災に遭ったものと推定される。

 

したがって、居館完 成の時期はだいたい同三年頃と考えられる。 益田氏の居館はその後も引き続きこの地にあり、慶長五年(一六〇〇)、益田元祥が長州の須姿に移るまで変わることはなかった。

 

この間、約二百三十年に及 ぶが、居館の改策・修楽については益田元祥が天正十二年(一五八四)に建て直 したことが文書によって明らかで、このため元祥が新しい居館に住んだ期間は わずか十七年にすぎなかったことがわかる。

 

それにしても、兼見の創建以来天 正十二年まで約二百年間も修・改築が行なわれなかったとは思えないが、この ことについての記録はない。

 

現在の三宅御土井跡(現在の泉光寺の境内地)は、だいたい益田元祥時代のままと考えられ、東西一九二m×南北八五mの規模で、東・西に土塁が設けられ ていた。

 

東の土塁は高さ五m、幅一四皿、西の土塁はやや低く、高さ四・五皿、 幅は同じく一四mである。南・北両側には築地があったが土手程度のものであ ったと『泉光寺文書』に記されている。

 

しかし、逆茂木は置いてあったようで ある。周囲の堀については、現在は住宅地や水田になり昔日の面影は失われて いるが、昭和四十七年水田を畑に改める作業中に掘り出された松・栗の杭から、 そこが東方の堀の外側であることがわかった。

 

土塁のある東西の堀の幅は二〇mで、南北はこの水田の幅が四〇mであることから、四〇mであったと思われこのような中世の豪族の居館跡が今日までほぼ完全な形で残っていることは 珍しいことで、貴重な遺跡といえよう。

 

その意味で、昭和四十五年十月、県教育委員会によって史跡として指定されたのである。

 

『日本城郭大系』14より引用

 

位置関係

 

城の歴史

1118年 益田氏の祖、藤原国兼が石見国司として下向すという。

 

1180年 「益田荘」初めて史料にみえる。

 

1184年 4代兼高 藤原兼高が石見国の押領使に任命され、平家方武士の追討を命じられるという。

 

1190~1199年 藤原(御神本)兼高が国府から益田に本拠を移し、益田氏を名乗ったという。

 

1274年 蒙古軍が日本を攻める(文永の役) この頃より石見十八砦を築くという。

 

1281年 蒙古軍が日本を攻める(弘安の役) 益田川を七尾城の外堀として改修すという。

 

1326年 南北朝の内乱石見全域に及ぶ 三隅兼連は七尾城を攻める(尾崎丸で戦いが発生する)

 

1363年 11代兼見が医光寺を建立する。

 

1368年 大谷土居焼失すという この後兼見が三宅御土居を築くという。

 

1467年 15代兼堯は高橋、三隅、福屋、周布などの諸氏と一揆契約を結び、石見国人一揆の代表となる。

 

1508年 17代宗兼が足利義稙・大内義興に従って入京。

 

1543年 大内義隆が出雲富田城を攻める(益田藤兼が先陣)

 

1551年 陶晴賢の反乱により大内義隆が自害し、大内氏滅亡このころより19代藤兼が七尾城を改修し山頂に居住し始める。

 

1555年 毛利氏が陶氏を滅ぼし、石見に進出。

 

1557年 藤兼が毛利に降る。

 

1566年 出雲富田城が落ち、尼子氏滅ぶ。

 

1582年 二十代元祥 本能寺の変 毛利軍(元祥従軍)、秀吉と和睦する。

 

1583年 元祥、三宅御土居を改修し、父藤兼とともに七尾城から下城する。

 

1600年 関ヶ原の戦いの後 元祥は毛利氏に従い長門須佐(山口県須佐町)に移る。

 

 

城主家系図

 

当主墓所

 

左:益田兼方墓

右:益田兼見墓

 

益田兼堯墓

益田宗兼墓

恐らく後世に建立されたものだと思われる。

益田兼藤墓

 

医光寺総門

七尾城の城門であった

 

医光寺は益田氏縁の寺院である。

 

 

城主石高

益田又兵衛(元祥)

総石高:12501.565石

【内訳】

石見美濃:10157.455石

石見那賀:2344.110石

 

所感

●比高もそれほど高くない初心者にお勧めの山城。

 

●麓の掘りを人工的に造ったのは相当の労力がかかったものと思われる。

 

●尾崎丸まで行った方がいい。

※東は艮の出丸。

 

●途中瓦の残骸が見つけれた時には興奮した。

 

●国史跡の為手入れはいいし本丸から見える景色は素晴らしい。

 

関連URL

 

参考URL

七尾城(ウッキペディア)

城郭放浪記(石見七尾城)

益田氏(ウッキペディア)

武家家伝(益田氏)

益田氏系図の研究

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『島根県の地名』

『日本城郭大系』14

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

公開日2021/06/13

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