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城データ

城名:松山城

別名:高梁城

標高:430 m(天守閣の位置)

比高:350m

築城年:仁治元年(1240)、秋庭三郎重信が築城。

城主:秋庭氏、高橋氏、高氏、上野氏、庄氏、三村氏、(天野氏、桂氏城代)小堀氏(奉行)、池田氏、水野氏、(定番)水谷氏 浅野氏(定番)安藤氏、石川氏、板倉氏 赤字が主な城主

場所:岡山県松山城高梁市内山下

北緯:東経:34.809071,133.622339

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

麓の看板。

小松山城と大松山城に分かれている。

大松山の方がはじめに城があった場所、中世の遺構が残っているらしい。

中腹からみた高梁市。

いよいよ、城域に突入。

この石垣がいい!

天然の岩石に石垣が乗っている。

大手門に突入。

足軽箱番所跡。

大手櫓。

土塁。

絵になる石垣。

曲輪。

周辺部。

本丸部分に進む。

厩曲輪。

四の平櫓跡、大量の瓦があった。

最後部へ進む。

 

備中松山城の沿革

備中松山城は、延応二年(1240)に有漢郷(現上房郡有漢町)の地頭秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築いたことに始まる。

 

元弘年中(1331~34)には、秋庭氏にかわり備後の三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康が大松山に入城。

 

この頃には縄張りは小松山まで拡張し、弟の大五郎を居城させている。

 

その後も、城の縄張りは変遷を遂げ、城主は高氏、上野氏、庄氏、尼子氏と替わり、永禄四年(1561)には安芸の毛利元就の支援を得た
成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主三村家親が尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、備中松山城主となっている。

 

元亀三年(1572)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜田氏の和解が成立すると、三村元親は東方の織田信長と結び、毛利氏に叛旗を翻す。

 

天正二年(1574)冬から翌三年夏にかけて毛利、宇喜田連合軍と三村勢の間で備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が展開される。

 

いわゆる「備中兵乱」で三村氏は滅ぶがこの頃には備中松山城の本城は小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸、佐内丸、太鼓丸、馬酔木丸などの出城・出丸が設けられ、全山が一大要塞となっていたことが記録などからうかがわれる。

 

また居館である御根小屋も現在の場所(臥牛山南西麓、現高梁高等学校用地)に設けられていたようであるが、本城とともにその縄張りや建物などについて詳細は明らかではない。

 

関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中でもっとも東にある備中松山城に国奉行として小堀正次、政一(遠州)父子を赴かせた。

 

小堀氏は頼久寺において政務を執っていたが、政一は慶長10年(1606)ぶ御根小屋と備中松山城の修築を行っている。

 

その後、政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田長幸が入城。その子長常に嗣子がなく廃絶、常陸下館から成羽を経て、寛永一九年(1642)水谷勝隆が入城する。

 

水谷氏は、勝隆、勝宗、勝美の三代が備中松山藩を治めている。初代の勝隆より玉島新田の干拓や高瀬舟による高梁川水路の開発など、
主に経済基盤は整備され県下三大祭りとして有名な「備中松山踊り」もこの頃に始まっている。

 

さらに二代の勝宗は、天和元年(1681)から三年にかけて備中松山城の大改修を行い、現存する天守や二重櫓、その他の櫓、大手門、二の丸櫓門搦手門なぢ全容が完成している。

 

しかし、三代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがなかったため水谷氏は改易となっている。

 

元禄六年(1693)水谷氏断絶後、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助良雄は一年近く在番として
備中松山城にとどまっている。

 

その後安藤重博、同信友次いで正徳元年(1711)に石川総慶が城主となり、延享元年(1744)に石川氏に代わって伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄が入城する。

 

板倉氏はその後、勝武、勝従、勝政、勝職、勝静、勝弼と七代続き廃藩置県を迎える。

 

 

1240~1330 秋庭氏 承久の乱後この地の地頭となり築城
1331~1355 高橋氏
1355~1382 高氏
1382~1509 秋庭氏
1509~1533 上野氏
1533~1571 庄氏
1571~1575 三村氏 三村氏が備中を制圧、毛利に攻められるのを防御する為大改修をする
1575~1600 城代として天野氏、桂氏
1600~1617 奉行として小堀氏
1617~1641 池田氏
1641~1642 定番として水野氏
1642~1693 水谷氏 水谷氏の事天守閣を建築
1694~1695 定番として浅野氏
1695~1711 安藤氏
1711~1744 石川氏
1744~1868 板倉氏

 

 

 

 

天守閣へ

現存12天守の1つ備中松山城の天守閣。

天守閣内。

囲炉裏。

 

御社壇。

天守閣周辺部。

搦手方向。

天守閣の奥にある二重櫓(これも岩盤の上にたっている事が分かる)

大松山ゾーンへ進んでいく。

中世山城の石垣が伝わってくる。

せいろうが壇。

堀切。

天神之丸跡。

大量の瓦がある。

相畑の曲輪まで戻る。

ここで時間切れ引き返す。

最後に1枚。

 

余湖図【備中松山城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

松山城跡 高梁市内山下

高梁市街地の北方にそびえる臥牛山頂の小松山にある山城跡。

 

天守閣の現存する山城としては日本で最高所(標 高四六〇メートル)にある城として知られる。

 

松山城は承久の乱後、新補地頭として有漢郷(現上房郡有漢町)に来住した相模国三浦氏一族と伝える秋庭三郎重信が延応二年(一二四〇)に臥牛山のうち大松山に築城した のが創始と伝えられる(備中誌)。

 

その後、小松山にも出城が築かれ、元弘年中(一三三一~三四)には大松山に高橋九郎左衛門宗康、小松山に弟大五郎が居城していたという が(備中府志)、元弘三年五月北条仲時に従って東上した宗康とその子又四郎範時は近江国で仲時に殉じて自害した (「太平記」巻九)。

 

高橋氏はその後窪屋郡流山城(現倉敷市) に転じたと伝え、正平一〇年(一三五五)には備中守護高師秀が入城した。同一七年、南朝方の山名時氏が山陰から 美作・備中に進出してくると、師秀は時氏麾下の多治目 (多治部)・楢崎両氏と結んだ秋葉三郎信盛によって「松山 ノ城」を追われ、備前徳倉城(現御津郡御津町)へ退き(「太平 記」巻三八)、以後松山城には六代にわたって秋葉氏が在城し、守護代を勤めた。

 

守護細川氏はおおむね在京していたために、当城が備中北部における守護所の機能を果していたと思われる。

 

応仁の乱では、秋葉元明が細川勝元に属して京都洛東岩倉山に陣を構え、山名方の軍勢を打破っているが(応仁別記)、やがて秋葉氏の勢力は衰え、永正年中(一五〇四 ~二一)には下道郡下原郷(現総社市)の鬼邑山(木村山)城を本拠としていた上野兵部少輔頼久が周防国山口の大内義興の支援を得て松山城主となった。

 

上野氏は天文二年(一五三三)頼久の子伊豆守の時、猿掛城(現吉備郡真備町)城主 庄為資に滅ぼされた(中国太平記)。

 

庄氏は為資とその子高 資の二代にわたって松山に在城した。

 

この間備中に進出 してきた山陰の尼子氏に攻められたが「鹿苑日録」天文八 年九月一二日条)、やがて尼子氏と手を結んで威を振るっ た。

 

しかし永禄四年(一五六一)に高資が尼子氏の加番吉田 左京亮と対立して城を出ると、安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主三村家親が松山城を 攻めて左京亮を討ち(同年四月二〇日「小早川隆景感状」萩藩閥閲録など)、松山城主となった。

 

家親は毛利氏と結んで美作・備前に進出したが、同九年に久米郡籾村興禅寺(現 久米南町)で宇喜多直家のため暗殺され、翌一〇年家親の 子元親も明禅寺合戦で直家のため大敗を喫した(備前軍 記)。

 

この大敗によって三村氏の勢力が一時後退すると、 備中には直家と結んだ尼子勝久の勢力が進出、元親は成羽へ退き、庄高資が再び松山城主となったようである。

 

しかし元亀二年(一五七一)毛利氏の加勢を得た元親は再び 松山城を回復した(同年二月一八日「穂田元清感状」黄薇古簡集)。

 

元亀三年将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると(同年一〇月二九日「小早川隆景・吉川元春連署 起請文」萩藩閥閲録)、元親は織田信長と結び、毛利氏に反 旗を翻した。

 

かくして天正二年(一五七四)冬から翌三年夏 にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で松山城をはじめ三村方の備中諸城をめぐって激戦が展開される。

 

このいわゆる備中兵乱によって三村氏は滅ぶが、この頃 の松山城は小松山に移っており、臥牛山一帯には大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出 城・出丸が設けられ、一大要害となっていた(中国兵乱 記)。

 

また城主の居館である御根小屋も後世の場所(臥牛山 南西麓)に設けられていたようであるが(同書)、松山城とと もにその縄張りや建物などについては明らかでない。三 村氏滅亡後の松山城は毛利氏の番城となり、家臣天野 氏・桂氏などが在城した(天正四年正月二三日「毛利輝元書状」 萩藩閥閱録など)。

 

『岡山県の地名』より一部抜粋。

 

松山城

 

松山城は備中の中南部、高梁川の左岸にあった典型的な山城で、一般的に平 地に進出した近世城郭史上、希有な例として知られており、同時に戦国期の国 人層による激しい戦闘の跡が秘められている点でも、関心が寄せられている。

 

標高四二〇-四八〇mの山並は、北から大松山·天神丸・小松山・前山の四塊 に分かれ、北東の一部が吉備高原の峰に接続している。

 

全山が、いまでも鬱蒼 おお とした自然林に覆われ、周囲が急峻な断崖を呈した天険の地である。

 

備中国内 にあって、伯備往来のほぼ中央に位置し、東西要路にもほど近いこの山城を守城することは、特に中世期における各氏族にとって、よほど重要な意味があっ たに違いない。

 

有力国人がこぞってこの城主をめざして攻防をくり返している 事実が物語るように、松山城を掌中に収めることが、国中にその武威を誇示す最短の方法であったらしい。

 

さて、この城の創設者は、承久の乱に北条義時に属して戦功を立てた相模の三浦一族秋庭三郎重信である。

 

備中有漢郷に地頭職として入部した仁治元年(一二四〇)に大松山に居城を構え、狭小な有漢盆地から、さらに国中を治めようと南北の要衝へと進出を開始したのである。

 

秋庭氏五代の 慶元年(元弘二、一三三二)の頃、備後三好の一族である高橋九郎左衛門宗康が入城し、城砦を小松山まで拡張して、城名を高粱城から松山城へと変えたとい われる。

 

文和四年(正平十、一三五五)―貞治元年(正平十七、一三六二)の期間 は、備中守護職として高越後守師秀が在城したが、貞治元年に城代秋庭三郎信盛は足利氏に属し、備北の国人の支援を得て師秀を追放し、備中の守護代におさまった。

 

その後、永正六年(一五〇九)から天正二年(一五七四)までの約六十 五年間は、めまぐるしく城主の交代がくり返された。まず足利氏の臣上野信孝 が守護代として、ついで庄為資、さらに三村家親、再び庄氏の庄高資、やがて 家親の子三村元親へと変転していった。

 

これら有力な国人層は、備中統一の野望に燃えてこの城を奪取したのであるから、城主の交代期におけるすさまじい戦闘は、いずれも筆舌に尽くしがたい ものがあったに違いない。

 

それは、いっそう広い領国の獲得をめざしていた宇喜多・尼子・毛利・織田氏など、各氏の動向と決して無関係ではなかったから である。

 

当時の諸氏の結び付きは、時として強い連帯によって、あるいはまた 激しい敵対関係を織りなして進行したことが、合戦時に集中して現われている。

 

元亀二年(一五七一)に、この城に入城した三村元親は、明禅寺崩れで衰退した 一党の勢力を回復して、大松山・天神丸・小松山・前山と全山に城砦を構え、 戦国大名としての地歩を固めつつあった。

 

しかし、東上策を進める毛利氏の軍事力の前に倒れ、宿願を達成することができないまま瓦解した。

 

天正三年(一 五七五)五月、いったん城を脱出した城主元親は、阿部深山まで落ち延びたが、 これ以上の逃走は不可能と悟り、近くの松蓮寺で自刃し、多難な生涯を閉じた。

 

ついに備中から戦国大名の誕生をみなかったのである。

 

その後、毛利氏の家臣 天野五郎左衛門が、次いで桂民部大輔が城番となった。余談ながらこの頃、毛利輝元は 、家臣に上月城で敗れた尼子氏の重臣山中鹿之介幸盛を毛利の本陣松山城へ送るようみせかけて、城下に流れる高梁川の阿井の渡しで暗殺させた話が残されている。

 

『日本城郭大系』13より一部抜粋。

 

城の歴史

仁治元年(1240):  承久の乱後、秋葉重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いた。

 

弘元元年(1331):この頃、備後三好氏の一族の高橋宗康が大松山に入城。この頃、縄張りは小松山まで拡張された。

 

康安2年(1362):  秋庭信盛は山名氏に通じ、高氏を追放して松山城を回復した 。

 

永正6年(1509):  秋庭元重は松山城を去って有漢郷に帰り土着したという、室町幕府の幕僚、上野頼久が城主となる、また子供の上野頼氏に松山城(大松山城)、弟の上野右衛門尉を小松山城(現在の松山城)に入れさせた。

 

天文2年(1533): 猿掛城主の庄為資が尼子氏の後援を受けて上野領に侵攻すると、上野頼氏は叔父 上野右衛門尉とともに討ち死にし、備中上野氏は滅亡した。

 

永禄9年(1566):  三村元親の父・三村家親は浦上宗景被官の宇喜多直家によって暗殺された。

※三村元親が父の死によって家督を相続した時には、備中松山城を拠点に備中のほぼ全域と備前の一部を手中に収めていた。

 

永禄11年(1568):  三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家は備中に侵攻した。

 

備中松山城を守る庄高資は、この時に宇喜多側に寝返った、更に機に乗じて宇喜多勢は猿掛城などを攻め落とした。

 

毛利元就はこれに危惧を感じ穂井田元清を遣わし猿掛城を奪還し、更に備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。

この戦いで備中松山城をようやく奪還した三村元親は、同城に大幅に手を加えて要塞化した。

 

元亀2年(1571):  毛利元清(穂井田元清)は備中中部で反撃を開始し、松山城を落城させる。

 

元亀3年(1572):  戦功のあった三村元親を松山城主とした。

※備中の覇権は完全に庄氏から三村氏に移った。

 

天正2年(1574):  毛利と宇喜多が手を結んだ為、三村氏が毛利に叛く(備中兵乱)

 

天正3年(1575):  毛利に攻められて三村元親自刃、毛利氏が松山城を支配する。

 

慶長5年(1600): 関ヶ原の戦いにて毛利氏松山城から撤退する。   

 

所感

●日本3大山城の一つ(備中松山城、大和高取城、信濃岩村城)3つの中で一番標高が一番高い。

 

●明治の廃城令の時に壊される予定であったが、あまりにも高い為ほっとかれた(その為廃城を免れる)

 

●昭和15年頃荒れるにまかされていた城を地元の有志が保存する。

 

●途中までは駐車場がある、土日はそこからバスで8合目まで行く。

 

●現在石垣がある松山城は戦国時代に三村氏によって大規模に改修された。

 

●中世山城を見るのには大松山城のほうがお勧め、本丸の天神の丸は天神様が祀ってあった為、膨大な瓦がある。

 

●現在の天守閣は江戸時代の1683年に水谷勝宗によって修築。

 

関連URL

 

参考URL

備中松山城(公式)

備中松山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(備中松山城)

城郭放浪記(備中大松山城)

備中松山城(秋田の中世を歩く)

武家家伝(秋葉氏)

庄氏(ウッキペディア)

武家家伝(庄氏)

三村元親(ウッキペディア)

 

参考文献

『岡山県の地名』

『日本城郭大系』13

公開日2021/06/05

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