城データ
城名:中荒城
標高:332m
比高:130m
築城年:永仁3年(1295)に築城とされている。
城主:吉見頼行
場所:島根県鹿足郡津和野町後田
北緯:東経:34.455173/131.760119
攻城記
近世城郭の津和野城から下っていく。
中荒城の構遺
吉見氏初代頼行公の永仁三年(一二九五年) 縄張によるもので、見張りのよくきく鷲原八幡宮の山上突端に築かれ、六段の郭の下周囲を 東南→南し西→北方向に空堀が取り巻くように長さ百七十メートルにわたって堀削されその空堀から十八本竪堀が放射状に連続して下方に向って堀りさげられている。
中世の砦としてほぼ完全な姿で残されているこの中荒城は とりで きわめて珍らしい貴重な遺構である
進んでいく。
中世山城 中城跡
文永十一年(一二七四)、弘安四年(一二八一)の元(蒙古)軍の北九州北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。
頼行は弘安五年(一二八二)、家来とともに能登から木曽野(津和野北西部) に地頭として入り、永仁三年(一二九五)、この城山山脈に築城を始めた。
「義教書集」(津和野古事談の著述)には「⋯吉見、木部か被築候城 は中荒城とて、今の法音寺之上二而、⋯」とあり、最初に築城を手掛け ところは、見張りのきくこの中荒城の位置であったようである。
現在の本城の位置に三本松城(中世山城)が築かれたのである。
6段の曲輪とそれらを取り巻く18本の放射状の竪堀が特徴的である。
最上段と第2段の曲輪には石垣を築いた跡がある。築城の初期はそれほど堅固な ものではなく、三方向が急傾斜の地形に着目したのであろう。
その後随時増築補強がされ、陶氏その他の大軍に対し、一〇〇日余の籠城戦に耐えた「三本松の役」(一五五四)の時には現在見られるような強固な中世山城になって いたであろう。
縄張図。
削平地にある石。
石積みの跡か。
曲輪跡。
周辺部。
多くの畝状竪堀があるのが特徴。
位置関係
余湖図【中荒城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の歴史
永仁3年(1295):吉見頼行によって築城。
天正19年(1550):所領争いをしていた益田藤兼が攻めてくる。この時中荒城も使用されたと考えられる。
天文23年(1554):大内義隆を弑逆した陶晴賢により攻められる。この時中荒城も使用されたと考えられる。
慶長5年(1600):関ケ原の戦い城主が吉見氏から坂崎成正に引き継がれる。この頃廃城か。
城主家系図
城主石高
天正19年 1591年時点の知行 |
吉見元頼 | 15,450.781 | 総石高 |
(次郎兵衛) | 7,325.435 | 石見 吉賀 |
7,890.036 | 長門 阿武 | |
50.890 | 長門 阿武 | |
184.420 | 長門 厚東 |
所感
●1295年に吉見頼行が最初に築城したのがこの中荒城で三本松城の前身だと考えられる。
●その後三本松城は順次拡大していき最終的に津和野城となった。
●城の周りに何十という畝城竪堀があるのは陶軍との対峙でこの城が使用されたことを物語っている。
関連URL
中荒城の後進となった津和野城。
参考URL
参考文献
『島根県の地名』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2021/05/31