城データ

城名:津和野城

別名:三本松城、一本松城、蕗城城、豪吾城。

標高:367m

比高:212m

築城年:永仁3年(1295)

城主:吉見氏、坂崎氏、亀井氏

場所:島根県鹿足郡津和野町後田

北緯:東経:34.459916/131.764034

津和野城はここ

 

 

攻城記

 

麓から歩いていく。

 

1キロだが比高があるので結構大変。

攻城開始。

戦国時代の津和野城は三本松城と言われていた。

典型的な中世山城。

曲輪跡。

瓦のかけらも多い。

南出丸跡。

脅し落石。

南出丸跡(別角度)

土塁跡。

堀切跡。

出丸に到着。

現在は改修中でブルーシートあり。

出丸からの風景。

 

中世山城 津和野三本松城跡

 

文永十一年(一二七四)、弘安四年(一二八一)の元(蒙古)軍の北九州・北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。

 

頼行は弘安五年(一二八二)家来とともに能登から木曽野(津和野町北西部)に地頭として入り、永仁三年(一二九五)この城山山脈に築城を始めた。

 

以後吉見氏は十四代三〇〇年間、随時増築補強を行い、城山山脈の諸所に曲輪・堀切・竪堀・横堀などを構築して堅固な中世山城(一本松城あるいは三本松城と呼ばれた)を築いた。

 

この山城は天文二十三年(一五五四)の「三本松城の役」では大内氏・陶氏・益田氏その他の大軍に山麓を包囲されながらも、四月から八月までの一〇〇日余の籠 城戦に耐えた。

 

吉見氏は関ヶ原合戦(一六〇〇)で毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。

 

翌年、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、現在の本 の位置に高い石垣の近世山城を築いた。

 

近代城郭の感じがいい。

苔むしているのもまた良し。

とても絵になる。

色々行ってみる。

 

国指定史跡

津和野城跡(馬立・台所・海老櫓)

 

ここは本丸の西、当城の三の丸にあ たる。階段を上って左は馬立と言われ、 乗馬をつなぎとめておく所、右は三段 櫓の最上部の建物へつながる。

 

馬立の奥には台所があり、石列による 排水の機能が見て取れる。

 

さらに奥には海老櫓といわれる建物 があり、搦手(喜時雨側)に直面する 望楼であった。

 

周囲は塀で囲まれ、その支柱を支え るための控え石がおおむね一間(一・八メートル)おきに置かれている。

 

津和野町教育委員会

当時どんな建物が建っていたのだろうか?

 

算木積みの石垣がいい。

本丸よりもその麓の石垣が見どころがある。

太鼓丸へ行く途中の石垣。

どれだけの人員を駆使して築城したのだろう。

太鼓丸に到着。

太鼓丸からの風景。

太鼓丸から三十間台を望む。

三十間台。

三十間台からの風景。

三十間台から太鼓丸方向。

三十間台から人質郭方向。

人質郭方面に進んでいく。

人質郭。

三の丸の石垣。

周辺部。

津和野城からはSLが見れることがある。

鷲原八幡宮

 

立派な八幡宮。

 

流鏑馬の馬場。

 

光明寺(吉見正頼公夫人の墓所)

 

 

亀井氏歴代墓所

初代亀井茲矩の墓。

歴代当主の墓。

 

余湖図【津和野城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

津和野城(三本松城)は総石垣の城郭として明治まで存続したが、元々坂崎氏が入城するまでは吉見氏の本拠であった。

 

城域は広く、蕪坂峠から南側が全て城域である。堀は深く、特に南端の郭に築かれている連続竪堀群と横堀からなる防御施設は圧巻である。

 

この防御施設の正面に陶晴賢が津和野城を攻めるために本陣を築いた陶ヶ嶽が位置している。

 

なお、防御施設の位置から察すると、吉見氏の時代と近世以降の主郭の位置は同一場所であったと考えられる。

 

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

 

津和野城跡 津和野町後田

城山(霊亀山)山塊の南端、標高三六七メートルの山上に築かれた山城。

 

中世の吉見氏時代は一本松城・三本松城 と称した。別に蕗城、豪吾(つわぶき・たくご)城ともいう。 国指定史跡。

 

永仁三年(一二九五)吉見頼行が築城したと伝 え、吉見氏代々が本拠としたが、関ヶ原合戦後、慶長六 年(一六〇一)坂崎直盛(成正)が当城に入り津和野藩三万石 を領し、城郭を改修した。

 

坂崎氏改易後の元和三年(一六 一七)には亀井政矩が入り、政矩および同氏代々が寛永~ 元禄年間(一六二四―一七〇四)にかけ城下町を拡張整備し、 明治四年(一八七一)まで城主として居城した。

 

「吉見氏時代」

史料とするには疑問が多いが吉見隆信覚 書(下瀬家文書)によれば、二度目の蒙古襲来後の弘安五年 (一二八二)に鎌倉幕府から西石見の海岸防備を命じられた 吉見頼行が、能登から海路石見国に至り、まず木部の木 園(木曾野)に居住。

 

その後永仁三年に城山の地を選び一本 松城の縄張りを始め、二代頼直の正中元年(一三二四)に完成、嘉暦二年(一三三七)に木園から館を移したという。

 

城山は麓を流れる津和野川が西麓から南端を回って大きく 北に屈曲し、西・南・北を囲み、天然の内堀を形成していた。

 

また東の津和野盆地、西の高田・喜時雨の両盆地 の外周をかなり高い山々が囲んでおり、防衛上の適地であった。

 

この段階の城は、現鷲原八幡宮裏の丘陵突端か ら北に続く丘陵に削平地を設けたもので、西側を大手と し、吉見氏は丘陵の西側の喜時雨に館を構えたと推定さ おく れている(津和野町史)。

 

戦国期には三本松城と称し、奥ヶ 茶野の御嶽城、中組の徳永城や下瀬山城(現日原町)、三之瀬城(現柿木村)、能美山城・萩尾城(現六日市町)など多くの支 城や砦をもっていた。

 

天文二〇年(五五一)九月に陶隆房(晴賢)が大内義隆を倒し、大内義長を擁立して実権を掌握すると、吉見正頼 は夫人が義隆の姉であることもあって、陶晴賢・大内義 長と対決する道を選んだ。

 

同二二年五月には下瀬左京助を安芸吉田郡山城(現広島県吉田町)に遣わして、毛利元就との連携を強めた(五月二三日「上瀬休世書状」閥閲録)。

 

晴賢・義長方は同二三年三月、当城を包囲する態勢 を固め、これに呼応した益田氏も下瀬山城を包囲して、 当城との連絡を絶った。同年の春から秋にかけて、「喜汁原」や「三本松本郷表」「坪尾小屋」などにおいて、戦闘が断続的に続いた(天文二三年四月二一日「益田藤兼感状」俣賀 文書など)。

 

陶晴賢は、津和野川の対岸で当城を見下ろす 鷲原の段原山に本陣を置いたといい、陣跡には陶ヶ嶽、津和野川の渡河点には戦(幾久)という古称が残る(津和野町史)。

 

天文末年の段階では、当城は現在の城地を主郭群として、南北に縄張りを拡大し、急速に防御機能を高めて いたと考えられる。

 

当城の北方の尾根上に、ピークを選 んで点々と曲輪が設けられたようで、小規模な堀切が確 認できる。当城の北限は三本の大規模な堀切が設けられ せんにんつか ていた千人塚の谷奥までとみられる。

 

南限は鷲原八幡宮 なかあら 裏の丘陵突端の中荒城である。

 

ここは陶方の攻撃を最も 受けやすい地点であったと考えられ、起伏を拾って曲輪 を重ねている。

 

このうちで最大規模の曲輪群は標高三四 三メートルの地点を主郭とするもので、西方の喜時雨側 の尾根にも、東方の尾根にも曲輪群を延ばして防御とし ている。

 

吉見正頼は、長期間の籠城に耐えきれず、天文 二三年八月末に室町幕府の計らいで、尼子氏の斡旋によ って陶晴賢・益田藤兼との和議に応じ、三本松城を開城した。

 

しかし毛利元就・同隆元軍が、九月一五日安芸の 折敷畑合戦で陶方を大破し、翌弘治元年(一五五五)一〇月一日の厳島合戦で陶晴賢を敗死させたので、正頼は山口 に向けて進撃を開始し、大内義長を自刃させた。

 

吉見氏 は以後毛利氏に臣従し、当城を拠点として、鹿足郡全域 (野々郷・吉賀郷)と長門国厚東郡において一万五千四五〇 石余を領した(毛利氏八箇国時代分限帳)。

 

三本松城の大手口は西側の喜時雨であったから、当初 の城下集落は喜時雨に形成されたとみられる。

 

しかし吉見氏時代末期には、近世的城郭を企図して大手を東側に移し、津和野盆地に市場集落を形成し始めたと考えられ ている。

 

坂崎氏入部一年後の慶長七年の津和野中領御縄町屋敷帳(津和野町郷土館蔵)に、本市・今市として町 一四三軒が記載されており、吉見氏時代にすでにかなり の市場集落が形成されていたことがわかる。

 

なお吉見氏時代、曹洞宗永明寺が応永二七年(一四二〇)に吉見頼弘を開基として建立されたといい、伝法寺(現廃寺)もすでに津和野に建立されていた。

 

また滝本祇園社(現弥栄神社)は、 正長元年(二四二八)吉見弘信が城の鬼門にあたる現在地に移し、城の南麓には永禄一一年(一五六八)に吉見正頼によ って鷲原八幡宮が造営され、ほかに西麓には木部八幡宮 (現在の中曾野の八幡宮)が建立されていた(津和野町史)。

 

『島根県の地名』より引用。

 

津和野城

津和野城は旧津和野町の西部にそびえる城山山脈の南端を占める標高三六七mに築かれていたが、津和野川が城山の西麓から南端を回って い、さらに北に曲がって流れ、城の内堀を形成していた。

 

また、この城山の四周は東の津和野盆地、西の高田・喜時雨の両盆地の外側をかなり高い山々が取 り囲んでおり、その点でも防禦上有利な条件を備えていた。

 

文永十一年(一二七四)および弘安四年(一二八一)の再度にわたる元軍のち、鎌倉幕府は九州および中国・四国の沿岸地帯の警固に意をそ その一環として、同五年、吉見頼行に対して西石見の海岸防備を命じた。

 

そこで頼行は能登から海路この地に至り、まず木部の木薗(木曾野)に入り、ここを 中心として本来の沿海警護にあたると共に本城を築くのに適切な地をも探し求 めていたが、十三年後の永仁三年(一二九五)、ついにこの地と定め築城の繩張りをするに至った。

 

すなわち、山頂部に削平地を造り、周囲の山の稜線の各所 に空堀を二か所ないし三か所、間隔をおいて設け、さらに少し上った所には軍 勢を待機させる小削平地を造るなど、築城に着手したのである。

 

当城は鹿足郡内および長門国などにも多くの支城や砦をもつていたが、その 主なものをあげると、当町木部地区の御識城・徳永城、日原町の下瀬山城、柿木村の三之瀬城、六日市町の能美山城・萩尾城、山口県阿東町嘉年の勝山城などがある。

 

主としては吉見氏が十四代三百二十年、坂崎氏が一代十六年、亀度 一代二百五十年続いた。吉見氏は十四代広行の時、毛利輝元に従って、慶長五 年(一六〇〇)、関ヶ原の戦に西軍として参加したため当地を追われた。

 

この戦の功によって坂崎出羽守成正が三万石の城主として入った。ところが成正はかの有名な千姫事件によって元和二年(一六一六)に滅亡した。

 

そこで、翌三年、亀井政矩が因幡鹿野から四万三千石の城主として着任し、十一代玆監が明治四年(一八七一)、廃藩置県で当地を去るまで亀井氏が城主として居 城した。

 

亀井氏の時代は、外様の大物大名毛利氏の監視の役をも陰ながらつと めていたものと思われる。

 

当城が近世的城郭として整備されたのは吉見氏の末期からで、櫓などもその 頃から坂崎氏の時代にかけて整えられたものと思われる。

 

坂崎氏の時代には本 城の北側に、本城への攻撃を側面から射撃できるように出丸(織部丸)が築かれ た。その時の築城技術者として、紀州から阿枕坊・根来坊・効胡坊の三人が招かれたが、その完成の暁に築城の秘密の漏洩を恐れて密かにこの三人は殺害されたという悲話も残っている。

 

なお近世になっても地形の関係から鎌倉 の山城はそのまま用いられたので、亀井氏になって寬永年間(一六二四~四四)には津和野大橋からいまの県道およびそれに続く町道の西 側に一皿にもわたる外堀が造られた(いまは 全部埋め立てられ、森 鷗外旧居前にわずかに その両岸の石垣を認め ることができるのみで ある)。

 

また、当城は そもそも当初の目的が 西石見の海岸防備を命 ぜられた吉見氏の築い たものなので、大手は 海側にあたる西側(喜時雨側)で、津和野の 市街地側(東側)は搦手になっていた。

 

しかし、時を経て坂崎氏の 時代になるとその状況 は変わり、正反対に津和野の市街地側が大手 となり、西の喜時雨側 が搦手となった。 鎌倉時代末期以来の城にもかかわらず、当城をめぐる合戦として、つぎにあげる陶晴賢の来襲を受けて戦っ たものだけのようである。

 

天文二十年(一五五一)、陶晴賢は自分と意見の合わない主君の大内義隆を滅ぼしてしまった。

 

ところが、当津和野城主吉見正頼の奥方は大内義隆の姉で ったため、一つには主君の仇討、一つには義弟の仇討とばかり正頼は逸早く 兵を挙げて長門に攻め入った。

 

そこで、晴賢は偽主大内義長を奉じて同二十年春、津和野城の攻撃を開始した。

 

まず当城の支城、嘉年の勝山城を攻略し、 内義長の本陣を徳佐(山口県阿東町)に進め、みずからは先陣の大将として国 の段原山(陶ヶ岳)に陣を構えて当城を攻めたてた。

 

すなわち、当城大手側の 田・喜時雨の地はそのおりの激戦地で、渡河点だった所は「戦」と呼ばれてる。

 

しかし、当城はその攻撃によく耐えた。当城は城山山脈の南端にあった で、この山脈は北に続いており、多少の断続はあるもののほぼ山伝いに二〇㎞ 余も先の日原町にある下瀬山城に通じていたので、ここともよく連絡をとり ながら防戦に努めたのである。

 

吉見氏は、そのうちに安芸の毛利氏が挙兵したので、毛利氏とも連携して、 防戦半年、計略として陶氏と和睦を結んだ。陶氏としても毛利氏が挙兵したか らには、津和野城攻めにその主力が釘づけにされていては困るという状況にあ ったわけである。

 

和睦によって退いた陶晴賢は、毛利氏との決戦に臨み、翌弘 治元年(一五五一)、厳島の戦で滅亡するに至った。その間に戦力の回復をはか った吉見勢は翌二年春、長門に打って出て大内義長を追い、山陽道を西進した宅利勢と山口において合流した。

 

かくして、相手の勢力の増強したのをみた大 内義長は自対し、この戦いもここに終結したのである。

 

このように強敵陶氏の軍勢をよく防ぎえた津和野城は、その後は戦場となる こともなく坂崎出羽守成正によって引き継がれた。坂崎氏の滅亡時にも幕府の配意によって出羽守成正と昵懇であった柳生宗矩などが城の引渡し役にあたって善処したので、さしたる争いもなく亀井氏に引き継がれた。

 

『日本城郭大系』14より引用

 

城の歴史

永仁3年(1295):吉見頼行によって築城。

天正19年(1550):所領争いをしていた益田藤兼が攻めてくる。

天文23年(1554):大内義隆を弑逆した陶晴賢により攻められる。

三本松の戦い(ウッキペディア)

慶長5年(1600):関ケ原の戦い城主が吉見氏から坂崎成正に引き継がれる。

元和3年(1617):坂崎氏から亀井氏に城主が変わる。

 

城主家系図

吉見氏関係図。

 

城主石高

天正19年 1591年時点の知行
吉見元頼15,450.781総石高
(次郎兵衛)7,325.435石見 吉賀
7,890.036長門 阿武
50.890長門 阿武
184.420長門 厚東

 

所感

●中世吉見氏の山城である三本松城と近世城郭である津和城を含めている。

●坂崎氏が改修したと言われているがこのような素晴らしい城を改修したのに感嘆するばかり。

●人質郭の高石垣には圧巻される。

●二の丸、三の丸側面の石垣は見どころ。

 

関連URL

【島根県】中荒城【鹿足郡津和野町鷲原】

津和野城の前身だった中荒城。

 

参考URL

津和野城(ウッキペディア)

城郭放浪記(石見津和野城)

吉見氏(ウッキペディア)

武家家伝(吉見氏)

坂崎直盛(ウッキペディア)

亀井氏(ウッキペディア)

武家家伝(亀井氏)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『日本城郭大系』14

『島根県の地名』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2021/05/31

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