注意:画像は10年以上前に行った時のものになります。
※現在は一方通行で行くことが出来ないところも多いと聞きますので指示に従っての見学をお願いします。
城データ
城名:竹田城
別名:虎臥城,安井ノ城
標高:353m
比高:250m
築城年:永享3年(1431)に太田垣光継によって築かれたらしい。
城主:太田垣氏,桑山重晴,赤松広秀
場所:兵庫県朝来市和田山町竹田
北緯:東経:35.300474/134.829109
攻城記
竹田城全景。
竹田城山門がお出迎え。
竪堀。
どんどん進んでいく。
歩いて15分で到着(南千畳の麓石垣)
南千畳
搦手口。
そっと下をのぞき込む。
鏡石を置いている。
本丸を望む。
正門。
昔は立派な門があったのだろう。
南二の丸。
南二の丸から本丸方向をのぞむ。
周辺部。
平殿。
平殿から花屋敷をのぞむ。
平殿にあった瓦の残骸。
花屋敷跡。
花屋敷付近から本丸をのぞむ。
花屋敷から降りたところの石垣。
瓦もあった。
400年以上ここにあるのが不思議でロマン。
本丸に向かうところの石垣。
圧巻である。
石垣マニアにはたまらない。
本丸に入っていく。
本丸。
本丸から南方面をのぞむ。
竹田の城下町をのぞむ。
北をのぞむ。
三角点。
素晴らしい石垣。
まだ算木積みではない。
このアングルもいい。
武の門。
三の丸。
三の丸
北千畳。
前方の山は観音寺山城。
本丸方向をのぞむ。
北千畳から降りたところに登り石垣もあり、この城域が広大だったことが分かる。
この苔むした感がいい。
資料館
航空写真。
史跡竹田城跡
竹田城は、嘉吉年間(1331-43)に守護大名・山名持豊(宗全)によって初めて築かれました。
当初は砦に近いものだったと考えられます。築城後は、太田垣氏が7代にわたり治めますが、天正5年(1577)、羽柴秀吉軍の但馬侵攻を契機に城は大きく造り変えられます。
現在の遺構は、文禄〜慶長初期の廃城時にごく近い時期の構築と考えられます。
古城山の地形を巧みに利用して、最高峰の天守台(標高353.7m)をほぼ中央に置き、本丸以下、南に南二の丸、南千畳、北に二の丸、三の丸、北千畳、さらに西には花屋敷と、3方向に延びる尾根に梯郭式に曲輪を配しています。
石垣は、近江太衆による穴太積みであり、総石垣造りで築かれた全国屈指の山城遺構であります。
石垣とともに城の特徴として挙げられるのが、南千畳と観音寺山城から山裾に向かって延びる大きな堀(竪堀)です。
これは山裾の居館を防御する施設として造られたものです。
竹田城が存在する古城山から派生した尾根は、北東及び南東方向に延びて、町の南北両端をふさぎ、町を囲んでいます。
さらに、町の東側を円山川が蛇行しながら北に流れているため、竹田城下町は山と川を巧みに利用した天然の惣構えを呈しています。
主郭部の規模は南北約400m、東西約100m、城下町及び周辺遺構を含めた城の範囲は南北約1.5km、東西約1.2kmであります。
主郭部は昭和18年、主郭部周囲並びに居館部は平成21年に国史跡に指定されています。
縄張図。
ジオラマ。
絵図。
城下町
赤松広秀の墓
悲しき最後の当主。
太田垣光景の墓
位置関係
竹田城Googleearthから。
余湖図【竹田城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【竹田城】
城の概要
JR播但線、竹田駅の西方、古城山(標高353,7m)の山頂部が竹田城で(虎臥城)です。
嘉吉年間(1441~1444)、守護大名の山名持豊(宗全)の有力家臣(国人)のひとり、太田垣の築いた城郭であります。
そのころの竹田城は砦に近い小さなものであったでしょう。その後、文録年間(1592~1595)から廃城になった慶長5年(1600)に近いころ、いまのような豪壮な石垣積みの城郭となりました。
この石垣は、織田信長の安土城と同じ技術(穴太積み)を用いています。山城としての美しさとともに、その縄張り(平面構造)のみごとさは全国でもゆびおりの城郭といえましょう。
竹田城の縄張りは、中央の最高峰を天主台とし、周囲に高見殿(本丸)、平殿、奥殿、花殿を配し、さらに鳥が双翼を広げたように、その南北の端をそれぞれ南千畳・北千畳としました。
城の規模は南北約400m、東西約100mで、いまなお当時の威容をほこっています。
パンフレットより
竹田城跡 現和田山町竹田古城山
円山川左岸、竹田集落の北西、標高三五三メートルの 古城山山頂にある。集落との比高は約二五三メートル。
太田垣氏の居城で知られ、近世初頭に改修が行われた。
城域は東西約五〇〇メートル・南北約五〇〇メートルの規模で総石垣で構築されている、国指定史跡(石垣部分のみ)
(太田垣氏時代―戦国期の遺構)
竹田城は山名四天王の 一人で有力国人太田垣氏の居城として知られる。その遺構は、竹田城の石垣下斜面北千畳から約一一〇メートル離れた北東尾根に構築されている観音寺山城に明瞭に残っている。
石垣下斜面には土でできた二十数段の小規模曲輪、二つの堀切、三ヵ所の畝状竪堀を含む一七条の竪堀群がみられることから、総石垣の竹田城の下に太田垣時代の遺構群の存在が考えられる。
観音寺山城は標高三一三メートルにあり、主郭(二九メニ〇メートル)と副郭(一八メーーメートル)からなる。
特徴的なのはこの二郭を取 巻くように斜面に放射状に一一条の竪堀群(なかには横堀を伴うものもある)が構築されていることで、縄張りからみて室町期までに構築された城を天正五ー七年(一五七七~七九)頃畝状竪堀によって改修したものと考えられる。
このように戦国期の太田垣氏の竹田城は竹田城と観音寺山城で構成され、連郭式の曲輪群を畝状竪堀や竪掘群で補強した城郭であった。
ただし南千畳から城下町側(東側)に延びる二条の大堅堀(長さ二五〇メートル)と観音寺山城から城下町側に延びる一条の大竪堀は居館を囲むように構築されており、山城と居館を一体化させるために織豊期(文禄以降)に造られたものだと思われる。
『兵庫県の地名』より一部抜粋。
竹田城
遺構は最高峰の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸が梯郭式に配置され、大手口を防禦する桝形部に沿って北千畳郭と搦手口(推定)のある南千豊郭を双翼とし、また天守台北西部下段には花屋敷郭を置いている。
昭和十八年一月、竹田城史跡指定の申請に際してまとめられた『調書』に基 づいて遺構の名称をあげると、北千畳・御溜殿(東の丸)・平御殿(平殿)・奥殿・花殿・講武所・南千畳・拝所などがある。
竹田城遺構の特徴は、その完成された縄張りにあり、新しい穴太流石積み技法を駆使して完成した石垣は、近世軍学の潮流と軌を一にしている。
たとえば 中世、但馬の山名氏の本拠だった此隅城遺構は山腹から山頂部にかけて人工的に削平され、そこには堀切・空堀を認めることができるし、また垣屋氏の根城 「薬々前城」(城崎郡)には緩斜面を縦に落とす「整堀」という注目すべき遺構も知られている。
永禄八年にはすでに成立していた『築城記』にいう「タテ堀」 とは、すでに天文年間(一五三二ー五五)に美濃の篠脇城に使用され、のち、越前朝倉氏の一乗谷城から若狭・丹後・但馬・播磨を経由して九州へ伝播した技 法といわれているが、主郭遺構面には、もはやこうした特徴は残存していない。
つまり、太田垣氏時代の遺構はまったく存在しないことになる。
江戸時代末期の天明三年(一七八三)刊の『上道陣兵衛覚書』は、太田垣氏の家臣で「上道」と称する人物が著わしたもので、俗書に類するが、示唆に富んでいる。
要点を示せば、赤松佐兵衛殿は秀吉の取り立てによる武士で、この安井の城主である。敵城である山名の安井の城を竹田の城として、これまで殿村 の大手口を竹田へ付け替えた。
さらに南に普請を施すため、民衆を動員し、石垣を構築したというものである。ところで、「安井」「殿」は、竹田城の東南山 を東西に延びる谷間部(竹田城の裏手)に位置する。
安井の出入ロ たにあい 「安井口」から、この谷間の最深部までおよそ二五畑、その地点を「奥」と称 する。
だから、この谷は奥・殿・安井と安井口の集落からなっている。
覚書は、 この谷間に面して太田垣氏時代の大手口があったというのである。
また石垣は穴太流石積み法を用いている。構築技法からみて、天正四年(一 五七六)に構築されたという安土城の技法と酷似しており、野面積みに加えて、 づらづ しのぎ積みを採用した穴太積みである。
石垣稜線部の角石部分の精粗をもとに 検討を加えた結果、主郭部の遺構は赤松氏時代、それも廃城時(慶長五年)に近く文禄年間(一五九二―九六)から慶長年間(一五九六ー一六一五)にかけて構 楽された遺構の可能性が極めて高いことがわかった。
『日本城郭大系』12より一部抜粋。
城の歴史
永享3年( 1431):山名持豊、竹田城構築に着手する。(口碑)
嘉吉3年(1443):竹田城完成。太田垣光景が初代城主となる。(口碑)
享徳4年(1455):山名持豊、播磨の赤松則尚を攻める。太田垣光景、先陣として参加する。(『嘉吉記』)
寛正6年(1465):太田垣景近、第2代城主となる。
応仁元年(1467):応仁の乱が勃発。
応仁2年(1468): 細川軍、朝来郡に侵攻する。景近二男・宗近(新兵衛)、夜久野にてこれを迎え討つ(『応仁記』)。
文明11年(1479):太田垣宗朝、第3代城主となる。
延徳4年( 1492):太田垣俊朝、第4代城主となる。
大永元年(1521):太田垣宗寿、第5代城主となる。
天文7年(1538): 太田垣朝延、第6代城主となる。
永禄13年(1570):太田垣輝延、第7代城主となる。
天正元年(1573):毛利軍・伯耆より因幡へ入国。山名祐豊・太田垣・垣屋・田結庄、毛利軍へ降伏(『兵庫県史』)
天正5年(1577):羽柴秀吉、播磨平定後、小一郎秀長をもって但馬を攻める(『信長公記』)
天正6年(1578):秀吉、再び小一郎秀長を竹田城に入れる(『信長公記』)。
天正8年(1580):秀吉の但馬侵攻(『信長公記』)。太田垣氏による竹田城支配は終焉を迎え、桑山修理太夫重晴が城主となる。所領10,000石(『播翰譜』)。
天正 13年(1585):重晴、和歌山城主として移封される。赤松広秀が城主となる。所領は20,000石(『廃絶録』)
文禄3年(1594):広秀、伏見城普請に参加。この時、所領は22,000石。
慶長5年(1600):関ヶ原の役で広秀(西軍)、丹後田辺城を攻める。敗戦後、鳥取城攻めにも加わるも、大火の責を問われ、鳥取・真教寺にて自刃。竹田城も廃城となる。
城主家系図
『和田山町史』より
城主石高
太田垣時代:不明
桑山重晴時代:10,000石
赤松秀広時代:20,000~22,000石
所感
●太田垣氏の時はそこまで堅牢な城ではなかったかもしれないが、その後で改修で近世城郭に生まれ変わった。
●登り石垣があるが、赤松広秀の朝鮮出兵でその技術を吸収した後に竹田城も改良したと思われる。
●表面上の石垣に目を奪われがちになるが、実は山の尾根や谷にはいくつかの竪堀もあり、何度も戦をした為実践的な山城になっている 。
●三の丸の西の場所にも石垣作りの井戸が存在する。
●太田垣氏が1431年から13年かけて作った当時は農民の生活は過酷で田んぼに松が生えたといわれる
関連URL
参考URL
参考文献
『史跡 竹田城跡』朝来市教育委員会
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/05/31