城データ
城名:賀儀城(かぎじょう)
別名:鍵城
標高:23m
比高:23m
築城年:戦国時代か
城主:浦氏
場所:広島県竹原市忠海床浦
北緯:東経:34.332980/132.987890
攻城記
賀儀城跡(鍵城跡)
標高約20mの丘陵上にあり、沼田小早川氏の一族、浦宗勝の水軍城跡である。
「四方なめら、山にして高凡16間、 山上は平地、 上の段の広さ 凡500坪、次の段の広さ凡160坪」(国郡志)に記される。
本丸の下には帯曲輪を設け、2の丸にあたる曲輪の北端にわずかに土塁が残る。
井戸もあったが現在は埋められている。今市や未友、鳥ケ城などの地名も残っている。
竹原市観光協会
攻城開始。
二の丸。
二の丸から本丸を見上げる。
本丸へ進んでいく。
本丸にある石垣。
当時のものなのか不明。
本丸。
本丸から見た瀬戸内海。
なかなか攻めにくい。
周辺部。
城の麓へ降りる。
舟隠し発見。
当時の人間が掘削したのだろう。
床浦神社
床浦神社 (水軍観光ルート)
この神社は別名海上大明神とも言われているように海に関係する伝承も多く伝えている。
もと城山に祭られていたが浦宗勝公が城を築かれたとき、現在の場所に移したという。
芸藩通誌には、小早川水軍の将、浦宗勝が永禄8年(1565)と天正元年(1583)に社殿を造営したことを示す棟札が記されているが今は見当らない。
昔からほうそうの神として忠海のみならず広く四国からも信仰され、文化8年予州松山候より常夜燈を奉納された。
境内には県天然記念物ウバメガシ樹叢が保存されている。
竹原市
床浦神社全景
瀬戸内海。
open-hinataより【賀儀城】
余湖図【賀儀城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【賀儀城】
城の概要
公園造成と急傾斜地崩壊防止工事により、遺構はかなり破壊されている。
現状からは三つの郭と帯郭が復元できる、山頂部の1郭は45m×20-30m程度の規模で、周囲に帯郭をもつ。
東下の2郭の先端には土塁がわずかに残っている。さらに北下の園路はかつての堀切道と考えられる。
この堀切の東にある3郭の北端は一段高くなっているので、櫓台か土塁があったと考えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
浦宗勝の城とあるが、浦宗勝は元は乃美氏であり居城は呉市音戸町あたりであった、また呉市仁方町にも由来の城がある。
以上のことから、後年に賀儀城の城番をしたものではないか。
しかし、浦氏自体はかなり古い家柄の為、浦氏初代である浦氏実が築城したと思われる。
城主家系図
。
城主石高
乃美孫兵衛 | 401.058 | 総石高 |
(乃美景継) | 122.000 | 長門 豊東 |
88.100 | 周防 熊毛 | |
190.958 | 安芸 賀茂 |
乃美四郎兵衛 | 273.845 | 総石高 |
(乃美元信) | 61.005 | 長門 大津 |
84.600 | 長門 豊西 | |
128.240 | 周防 都濃 |
乃美兵部 | 50.000 | 総石高 |
(乃美宗勝) | 50.000 | 周防 吉敷 |
関係図。
所感
●浦賢勝や宗勝は最初は音戸の瀬戸城にいたので瀬戸氏とも称していた。
●城の遺構は破損しているので旧状は不明であるが、麓から見るとほぼ垂直な岸壁で攻めるのは困難。
●船隠しもあったがこのような遺構をみると、そこに中世城があったのだと改めて思う。
関連URL
浦宗勝が関係していると思われる城。
城主が浦宗勝とされている城。
参考URL
【瀬戸内の海城】賀儀城【空から攻める山城】ドローン空撮 Mavic2pro The Kagi castle
参考文献
『芸藩通志』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩諸家系譜』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
公開日2021/05/23