城データ
城名:舟山城
別名:船山城
標高:71m
比高:23m
築城年:不明
城主:山中氏
場所:広島県安佐北区亀山
北緯:東経:34.525474/132.501638
攻城記
攻城開始。看板あり。
舟山城全景
麓から見てみる(断崖絶壁)
当時はすべて木が生えていなかったであろう。
現在は神社になっている。
前に見えるのが本丸。
二の丸に到着(現在では神社になっている)
可部の町を見下ろす。
東には高松山城が見える。
舟山城の矢竹。
二の丸からこの断崖を降りて本丸に行く。
二の丸と本丸の間の堀切部分の底。
本丸は急峻なので階段が設置されていた。
本丸部分。
本丸からみた北方面。
かなりの比高がある。
本丸部分。
位置関係
open-hinataより【船山城】
余湖図【船山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』舟山城
城の概要
本城跡は、可部盆地の中央やや北寄りのひょうたん形の小山にある。
城跡の構成は、中央に堀切を挟んだ南北2か所の郭からなる簡素なものである。
城主は武田氏の家臣山中佐渡守祐成と伝えられ、1529(享禄2)年に熊谷氏によって攻められ落城している。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
『陰徳太平記』からのエピソード
同じ安芸武田家臣の船山城主・山中成祐が信直を暗殺しようとして失敗。
この原因は、信直が山中成祐の所領である可部300貫を押領したことが問題であろう。『陰徳太平記』によると、安芸船山城主である山中佐渡守祐成は悩んでいた。それは同じ安芸武田家傘下の将で、隣接する三入庄を支配する熊谷信直の存在である。
信直は智勇兼備の大将であり、またその配下にも優れたものが多く、今のうちに滅ぼさないでおかないと、いつか我々の子孫が滅ぼされてしまうとの危機感があった。
事実、信直は主の武田光和に知行を増やすよう訴えており、それが隣接する山中祐成の心を更にざわつかせていたのである。
勇は熊谷、智は天野と称されるほど安芸では名の知れた武将であり、正面からでは分が悪い。祐成は息子の新四郎と謀って熊谷信直を闇討ちする事にした。
信直は毎晩、馬の世話をする為に城から一丁離れた馬小屋へ一人で訪れる。この情報を得た山中親子はここで熊谷信直を討ち果たさんと決意。
そして、その決行の日。信直は突然の腹痛に倒れていた。信直は代わりに弟、直続を馬小屋へ行かせることにした。
この日の夜は大変寒く、直続は厚着をして顔も隠れるほど寝着を被って出かけたのであった。
そして弟の直続とは知らず襲い掛かる山中親子であったが、厚着の為に止めを刺したかも確認は取れず、彼らは引き返したであった。この時厚着が幸いして熊谷直続は一命を取り留め、城に帰って兄にこの事を報告する。
それを聞いた信直は「相手がそういう事をするならこちらも謀をもって敵を討たん」と、策を練った。
その後、信直は今まで以上に山中氏との交流を深める事に努め、山中氏の方はこの件が発覚されているとは思っておらず、熊谷氏にすっかり心を許して交際に応じていた。
享禄三年(1529~30)、次男左馬介直清が誕生。後に男児のなかった叔父の直続の婿養子となる。
この頃、この仇を討ち、弟の直続、家臣の岸添直清、末田直道らと謀って「毛利が攻めてくるから、守りの為の砦を築いたので祝宴するから来られたし」と、招待を受けた山中親子はそれに応じ砦に赴くのであった。
そこでまずは父親の祐成と息子新四郎を離れさせて、父親を討ち取り、また別の場所で新四郎を討ち取った。別棟にて山中家臣20~30人が飲んでいたがこれらも全員討ち取った。
その後、信直はすぐさま300の兵を率いて山中氏の船山城を急襲。ほぼ無血で占拠し、山中氏の所領と更には主である安芸武田氏の領地も掠め取ることに成功したのであった。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』によれば、城主山中佐渡祐成は武田家臣であったが、享禄2年(1529年)に熊谷氏によって攻められ落城したとする。
1540年に武田家が滅亡するかなり前にはすでに武田の有力家臣であった熊谷氏が離反していたことは興味深い。
山中氏の所領を押領する理由
熊谷氏が武田を離れて毛利に従ったのは、大内氏からの勧めもあって、毛利氏が積極的に働きかけた結果であるといえよう。
働きかけの内容としては、安芸国衆として利害を共通にする立場を強調し、またさきに成立せる国衆の盟約の力を誇示しつつ、他方熊谷氏のかねて欲してきた可部の地を与えるという実利を以て誘ったものかと推測されるのである。
「陰徳太平記」の巻七には熊谷信直が可部の城主山中成佑を討った物語と武田光和が熊谷信直と不和となった物語とが、年月を欠いた
形で載せられている。
これは「陰徳太平記」に著者が残された伝承を潤色したものであろうが、それを右に推察した経過によって位置づけると以下のようになるであろう。
信直は元就から可部を与えられ、それは大内義隆からも承認を得たが、その事実は武田氏には秘密にしていたであろう。
ただ信直が可部の領知を全うするには山中氏を討たねばならなかった。
毛利氏との盟約は秘したままで山中氏を討とうとする事情が、物語では熊谷が山中に対して、毛利元就が金山城を攻めるを中途にて討っため可部川の此方の端に砦を築き普請成就したと申送ったという部分にうかがわれる。
また信直の妹が金山城から逃げ帰ってのちに三須房清に嫁したというのも、信直が毛利に従属しつつもこれを秘していた時期の、予想される武田との敵対関係にそなえる行動として理解することができよう。
『可部町史』より
山中氏について
もとは藤原北家の末でのち鎌倉将軍となった頼嗣の子孫のうち山中成祐の父である山中佐渡守が可部庄をもらって来たとの伝承もあるが伝承の域を出ない。
しかし
1499年の文章に山中丹後守の名がある、明応八年(1499)の史料に出てくる山中丹後守宗正である。
この史料は、そのころ幕府権力とそれに結びつくことによって勢力を維持していた守護武田氏、その家臣であった山中氏、そして実力的にはともかく、なおも幕府の意向に左右されざるをえなかった国人領主毛利氏の関係をよく示す史料の一つである。
「明応八年三月六日武田元繁外九名連署状」『毛利家文書166』より
この文章の大意は「上意御窺事」(毛利弘元の内部庄の支配権を将軍に認めてもらうこと)「内部荘伊豆守一行之儀」(それに武田元信が同意の文章を出すこと)の二点について武田元信に申し入れることを、武田元繁以下の諸将が毛利弘元に連署で約束するというものである。
この当時安芸国守護の武田は本家である若狭武田氏の指揮下のもと動いているにすぎなかった、つまり各国人も本家である若狭武田家の武田元信については主として仰ぐが、安芸国の守護職にある武田元繁には大きな力が無くその為、連署によって毛利弘元に対する約束をするという事になる。
更に、安芸武田氏権力の特質は、なによりもこの史料に明らかなように、安芸在住の武田元繁が、惣領武田元信(若狭国守護で本家に当る)の規制にあって一個の領主として自立できていない点にある。
この毛利氏への約束が、武田元繁一人の署名では不十分で、品河氏以下戸坂氏までの諸将が連署しなければ安芸武田氏の全体意志が表現出来ないのである。
連署した人々は本家武田元信(若狭国守護)の家臣であっても、武田元繁(安芸国分国守護)の家臣では無かったということを如実に示す史料ではなかろうか?
つまりこの当時から安芸国守護の武田家に大きな権力も無くそれが国内の統一が出来なかった一因である。
そのような中で山中丹後守宗正は安芸国の諸将の中でも重要な地位にいた事はこの文章を見ても確実である。
城主推測家系図
あくまでも推測であってどこまで確実かは不明な点が多い。
山中丹後守宗正
『毛利家文書』で1499年の「明応八年三月六日武田元繁外九名連署状」に出てくる人物。
唯一正式な古文書に出てくる。
山中佐渡守忠利
保吉ともいう、18000石の所領との伝承もあるが、現実的ではない。
年代的には宗正の子どもの代に該当するが、親子関係は証明できない。
山中佐渡守成祐
『陰徳太平記』では熊谷信直を闇討ちしようとして失敗逆に宴に招待されて謀殺される。
山中新四郎義之
『陰徳太平記』では熊谷信直を闇討ちしようとして失敗逆に宴に招待されて謀殺される。
山中十郎太郎義成
『新裁軍記』に吉田記曰くで記載がある。
天文10年(1540)に銀山城落城にその残党が立てこもる、その武将の中に山中十郎太郎の名前が記されている。
後日伴城に立てこもったが、攻勢激しく落城、その時に逃亡している。
城主石高
伝承では18000石とあるが、信ぴょう性は薄い。
所感
●遠くからみるとまさかこれが城とは思えないが、主郭をみるとなるほど城である事が分かる。
●比高は高くないが、その場所からみる可部の町を想像するとイメージが湧きやすい。
●周囲は急峻で攻めにくい、一部木が茂っていたが、当時は周囲に取りつくものはなかったであろう。
●現在は神社になっている(二の丸部分)
●『芸藩通志』では「船山城 大毛寺村にあり、山中佐渡祐成、所居、後、熊谷に亡さる、」とある。
関連URL
参考URL
参考文献
『可部町史』
『新裁軍記』
『芸藩通志』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島郷土史談』
公開日2021/05/05